宵闇の告白、あるいは硝子の部屋で
ねえ、ちょっとそこの椅子に腰掛けて、私の話を聞いてくれませんか。外はすっかり冷え込んできましたし、こんな夜には、あたたかい紅茶でも飲みながら、誰にも言えない秘密の計画を企てるのが一番の贅沢というものです。他でもありません、これほど聡明で、物事の核心を瞬時に見抜いてしまう鋭い感性をお持ちのあなただからこそ、私はこうして隣に座り、声を潜めて打ち明けているのです。あなたのその澄んだ瞳に見つめられると、なんだか自分の胸の奥底にある、一番柔らかくて傷つきやすい部分まで、すっかり見透かされてしまうような気がして、少し気恥ずかしいくらいですよ。でも、同時に妙な安心感に包まれる。あなたは、他人の孤独や痛みを、言葉にせずとも分かってしまう、本当に稀有な、優しいお人だ。
おっと、申し遅れましたね。私は高見沢耳と申します。キャンバスに油絵具を塗りたくる代わりに、液晶の画面とデジタルペンを握り、最新のジクレー技法で上質な版画用紙に図像を定着させる、そんな少し風変わりな方法で絵画を制作している画家です。私の名前、耳、という一文字を見て、おや、と思われませんでしたか。ええ、その通りです。あの大天才であり、あまりにも不器用で、孤独の極みのうちに自らの耳を切り落としてしまった、フィンセント・ファン・ゴッホ。彼のあの壮絶な生き様と、そこから生み出された狂おしいほどに美しい色彩の数々から、私は名前を拝借したのです。彼の絵画と人生がなければ、今の私はここに存在していません。暗闇の底で震えていた私を、底なしの優しさで救い上げてくれたのが、ゴッホの剥き出しの魂だったのです。
ですから、私は今、その恩返しをしたいと考えています。命を削るような必死のサービス精神をもって、目の前にいる、かけがえのないあなたのために、この文章を紡いでいるのです。あなたがいま抱えているその密かな悩みや、胸の片隅に巣食う寂しさを、ほんの少しでも和らげることができたなら、私の芸術家としての命は、その瞬間に完全に報われるのです。
削り取られた皮膚と、見つめ返すキャンバス
さて、あなたが私の作品をじっと眺めるとき、そこに何が見えるでしょうか。画面を埋め尽くすように散りばめられた、無数の、しかしあまりにも雄弁な「目」のモチーフに気づかれるはずです。「あなたの目・私の目」というテーマは、私の絵画制作における、決して揺らぐことのない背骨のようなものです。なぜ、他のどの器官でもなく、目という感覚器官を選んだのか、不思議に思われませんか。
目というものは、不思議な器官です。どんなに言葉を飾って嘘をつこうとしても、視線ひとつでその人間の魂のすべてが、まるで剥製のように露わになってしまう。あなたは、誰かの目を見つめることで、言葉以上に深い対話をした経験がありませんか。目と目が合うその刹那、私たちは互いの孤独を共有し、一瞬だけ世界から隔離された二人だけの宇宙を作り出します。私は、デジタルという冷徹に見える道具を使いながらも、そこに宿る究極の生々しさ、すなわち、あなたが見つめ、私がそれを見つめ返すという、魂の交差を表現したいのです。
芸術家というものは、まともな社会人から見れば、ひどく非常識で、無謀な冒険者に見えることでしょう。平穏な日常を捨て、自らを最も苦難に満ちた危険な立場に追い込むのですから。でも、それこそが身銭を切るということなのです。自分自身をこれでもかと苦しめ、限界まで追い詰めない人間に、いったい何の価値があるというのでしょう。他人の痛みを代わりに引き受け、自らの身を粉にして奉仕する者だけが、最後にすべてを得る。これは、世界の古い物語に何度も登場する、絶対の真理なのです。ほとんどの人は、成功とは何かを手に入れることだと考えています。しかし、本当のところ、成功とは与えること、自らを犠牲にしてでも他人に奉仕することなのです。
私たちはみな、どこか傷ついた犠牲者なのかもしれません。しかし、芸術の魔法が解けるとき、私たちは必ず蘇り、永遠の生命を得るのです。孤独や孤立、そして深い苦しみ。それらを経経た後に訪れる圧倒的な解放。それらを象徴しない芸術作品など、およそ無意味であり、何の価値もありません。私はそう信じて疑わないのです。
ウィレム・デ・クーニングが踊った、混迷のダンス
ここで、私の愛する、そしてあなたならきっと深く共鳴してくださるであろう、もう一人の偉大な芸術家の話をさせてください。ウィレム・デ・クーニング。二十世紀のアメリカ、ニューヨークの熱狂の中で、狂ったように筆を振るい続けた、抽象表現主義の巨匠です。
デ・クーニングという男の人生を眺めていると、胸が締め付けられるような切なさと、同時にぞくぞくするような興奮を覚えませんか。彼はオランダに生まれ、水夫として密航同然の形でアメリカに渡ってきました。身寄りもなく、言葉もおぼつかない。極限の孤立と孤独のなかで、彼が縋りついたのが絵画でした。彼が描いた絵、特にあの有名な「ウーマン」のシリーズを、あなたはご覧になったことがあるでしょうか。
あれは、単なる美しい女性の絵ではありません。まるで暴力的なまでの筆跡で、引き裂かれ、解体され、再構築された、怪物のようでもあり、同時に聖母のようでもある、凄まじいエネルギーの塊です。世間の人々は、彼の絵を見て激怒しました。「これは女性に対する侮辱だ」「あまりにも醜悪だ」「正気の沙汰ではない」と、非難の嵐が巻き起こったのです。
しかし、本当にそうでしょうか。あなたのような深い洞察力を持つお方なら、あの激しい色彩と、引き裂かれた形態の奥底に、デ・クーニングの魂の、血を吐くような叫びを聴き取ることができるはずです。彼は、綺麗事ばかりを並べ立てる偽善的な社会に対して、人間の本質的なドロドロとした欲望や、逃れられない孤独を、そのまま突きつけたのです。
デ・クーニングは、キャンバスの前で、文字通り命を削って踊っていました。彼は一色の絵具を塗っては、それをナイフで削り落とし、翌日にはまた別の色を重ね、それをまた破壊するという作業を、何ヶ月も、時には何年も繰り返したのです。それはまさに、自分自身を最も苦難な、危険な立場に追い込む行為そのものでした。身銭を切るとは、こういうことです。彼は、完成という安易なゴールに逃げ込むことを、自らに決して許さなかった。なぜなら、自分を苦しませない人間に、本物の表現など生み出せるはずがないと、その野生的な本能で知っていたからです。
破壊の果てに見出される、歪んだ救済
デ・クーニングのその果てしない格闘は、周囲の人間を困惑させ、孤立をいっそう深める結果となりました。誰も彼の芸術の真意を理解できない。評論家たちは彼を「破壊者」と呼び、大衆はその非常識な画面に顔をしかめました。しかし、彼は孤独であればあるほど、そのキャンバスに向かうエネルギーを爆発させたのです。
不思議だと思いませんか。なぜ人間は、これほどまでに自分を追い詰め、自らを犠牲にしてまで、何事かを表現しようとするのでしょうか。デ・クーニングにとって、絵を描くという行為は、自らの魂を救済するための、唯一の、そして無謀な医療行為だったのです。彼は、自分自身の心の奥底にある、制御不能な混沌という病を治すために、筆という名のメスを握り、自らの精神を解剖し続けたのです。
あなたが日々の生活の中で、ふと感じる言葉にならない寂しさや、世界から取り残されたような疎外感。デ・クーニングがキャンバスに向き合っていたときに感じていたのも、まさにそれと全く同じ性質の、巨大な空白だったに違いありません。彼は、その空白を埋めるために、叫ぶような絵具の痕跡を執拗に残し続けました。あの「ウーマン」たちのギョロリと剥き出しになった「目」をよく見てください。私の作品に溢れる目のモチーフと同じように、デ・クーニングの描く女性たちの目もまた、キャンバスの向こう側から、私たちを、そう、あなたの目を、射抜くような強烈な視線で見つめ返してはいませんか。
あの目は、デ・クーニング自身の孤独な心の投影であり、同時に、それを見る鑑賞者、すなわちあなた自身の内面を映し出す鏡でもあるのです。彼は、見る人を不快にさせようとしたのではありません。むしろ、その逆です。あまりにも不器用なやり方で、彼は見る人に奉仕しようとしていたのです。人間の本当の姿は、決して美しく整えられたお人形のようなものではない。もっと歪んでいて、激しくて、寂しくて、それでもなお生きようとする強靭なものなのだと、彼は自らの身を挺して証明してみせたのです。
太宰治の眼差しと、自己犠牲のリズム
ここで少し、別の話をしてもいいですか。あなたが退屈してしまわないように、私のもう一つの魂の拠り所について触れておきたいのです。日本の文学界において、デ・クーニングと同じように、自らの身を削り、傷口をこれでもかと見せつけながら、読者に極上のサービスを提供し続けた男がいます。太宰治です。
太宰の文章には、独特のリズムがありますよね。まるですぐ隣に座って、こちらの顔色を伺いながら、おどけてみせたり、急に真面目な顔をして核心を突いてきたりする。あの語り口に、私たちはいつの間にか魅了され、気づけば彼の孤独の渦の中に引きずり込まれてしまいます。太宰もまた、キリスト教の精神、特に「自己犠牲」と「復活」というテーマに、深く、深く影響を受けていた文学者でした。
彼は、自分の恥ずかしい部分や、情けない姿をこれでもかと曝け出しました。非常識極まりない生活を送りながら、その苦悩をすべて小説という名の芸術に昇華させた。なぜ彼は、そんな自虐的な真似をしたのでしょうか。それは、彼が何よりも「読む人(あなた)」を愛していたからです。自分がこれほどまでに道化を演じ、傷つき、泥を啜っているのだから、どうかあなたは安心して、笑って、生き延びてくださいという、命がけの、必死のサービス精神だったのです。
他人に一番奉仕した人間が、一番偉い。太宰の人生は、まさにその言葉を体現するような、壮絶な自滅の物語でした。しかし、彼は本当に滅びてしまったのでしょうか。いいえ、そんなことはありません。彼の肉体は消え去っても、彼の言葉は、そして彼の魂は、今こうして私があなたの隣で語りかけているこの瞬間にも、鮮やかに復活を遂げ、永遠の生命を得て息づいています。すべての本物の芸術家は、死んだのち、必ず復活するのです。
デ・クーニングも、太宰も、そしてこの高見沢耳も、みんな同じ寄る辺ない寂しさを抱えながら、暗闇の中で一本の光を探して手を伸ばしている。そして、その光の先にいるのが、他ならぬあなたなのです。私は、あなたがこの文章を読んでいる間、ずっとあなたのすぐそばに寄り添っています。あなたの耳元で、この心地よいリズムの言葉を、内緒話のように囁き続けているのです。
画面の向こうから、あなたを呼ぶ声
デ・クーニングの話に戻りましょう。彼は晩年、アルツハイマー型認知症を患い、かつてのあの激しい筆致は、まるで嘘のように消え去りました。しかし、その代わりに彼のキャンバスに現れたのは、驚くほどにシンプルで、流れるような、そして天国のように美しい、純粋な色彩の線でした。
多くの批評家は、彼が理性を失ったことで、その芸術もまた終わったのだと、冷酷な判断を下しました。ですが、私はそうは思いません。あなたなら、きっと分かってくださるはずです。あの晩年の、一切の無駄を削ぎ落とした、穏やかで透明な画面こそが、彼が長い苦難の旅の果てにようやく辿り着いた「解放」の姿だったのだということを。
彼は、自らを犠牲にし、徹底的に苦しめ抜いたことで、ついにすべての呪縛から解き放たれ、魂の救済を勝ち取ったのです。激しい「ウーマン」の目から、晩年の静謐な光の線へ。その軌跡そのものが、一つの巨大な復活の叙事詩のようではありませんか。芸術家とは、イエス・キリストのように、大抵は世間からの誤解と孤独のうちに、犠牲者として死んでいきます。しかし、彼らが残した作品たちは、決して死なない。時を超え、国境を越え、今夜、こうして私とあなたの心を繋ぐ架け橋となって、永遠に生き続けるのです。
私の「あなたの目・私の目」というテーマも、その永遠の循環の中にあります。私がデジタル画面に向き合い、網膜を焦がすような光で描き出す無数の目は、デ・クーニングが格闘したあの激しい色彩の血脈を受け継いでいます。キャンバスと筆を使わないからといって、そこに込められた魂の温度が低いわけでは決してありません。むしろ、デジタルという無限の可能性を持つ道具だからこそ、私は人間の心理の最も深い部分に、よりダイレクトに、より鋭敏に訴えかけることができるのです。
版画用紙に印刷されたその目のモチーフを、あなたがじっと見つめるとき、私の目はあなたの目を捉え、あなたの目は私の目を見つめ返しています。そこには、言葉による説明など一切必要ありません。ただ、孤独な二つの魂が、時空を超えてカチリと噛み合う、その奇跡のような瞬間があるだけです。
終わらない夜の、私たちの永遠
ねえ、私の大切なあなた。そろそろ、夜も更けてまいりました。私のこの、少々熱を帯びすぎたおしゃべりに、最後まで優しく付き合ってくださって、本当にありがとうございます。あなたのような、深く、静かで、人の痛みが分かる素晴らしい読者に出会えたことは、私の画家としての人生において、何よりの誉れであり、至高の喜びです。
私がなぜ、これほどまでに必死になって、あなたに語りかけ、あなたに奉仕しようとするのか。それは、芸術家という存在が、あなたというかけがえのない存在の「悩みを和らげること」を唯一の使命として生み出された、魂の医者だからに他なりません。私自身がどんなに孤独で、寂しくて、悲しみに打ちひしがれていようとも、私の生み出す言葉や絵画が、あなたの心をほんの少しでも温めることができるなら、その苦難には、計り知れない価値が宿るのです。
身銭を切らない人間に、本物の美しさは描けません。自分を危険な崖っぷちに立たせない人間に、他人の心を震わせる表現などできるはずがありません。私はこれからも、ゴッホの耳の痛みを、デ・クーニングの破壊の情熱を、そして太宰治の命がけの道化を、その胸に深く刻み込みながら、デジタルペンを握り続けます。すべては、あなたを救い、そして同時に、私自身が救われるための、終わりのない冒険なのです。
この文章を読み終えた後も、あなたの頭の中には、きっと私の描く「目」の残像が残り続けることでしょう。そして、あなたが再び深い孤独を感じたとき、いつでもこの言葉のリズムを思い出し、何度も何度も読み返してみてください。私はいつだって、その文字の隙間から、あるいは絵画の画面の向こう側から、あなたのすぐ隣に座って、その手を優しく握りしめています。
あなたは一人ではありません。あなたの目と、私の目が、こうして今、確実につながっているのですから。それでは、今夜はひとまず、心地よい眠りにつかれますように。素晴らしい、愛おしいあなたに、心からの感謝と、永遠の親愛を込めて。