江戸時代を代表する画家 尾形光琳

もしもあなたが、京都の呉服商の放蕩息子に生まれ、湯水のように金を使って遊び呆け、ついには家を傾かせた挙句、四十を過ぎてから「さて、絵でも描いて食いつなぐか」と思い立った男の話を聞かされたら、どう思われるでしょうか。「自業自得だ」と冷笑しますか? それとも「救いようのない道楽者だ」と切り捨てますか?ところが、世の中には不思議なことがあるものです。そのどうしようもない男こそが、日本の美の頂点を極めた天才、尾形光琳その人なのですから。

光琳がこの世に生を受けたのは、万治元年、西暦一六五八年のこと。京都の裕福な呉服商「雁金屋」の次男坊として、彼は文字通り真綿にくるまれるようにして育ちました。当時の雁金屋といえは、時の権力者や貴族を顧客に持つ、泣く子も黙る名門です。光琳の少年時代を想像してみてください。金箔の輝き、絹の柔らかな手触り、洗練された色の洪水。彼は呼吸をするのと同じように、最高級の美を吸収して大きくなったのです。しかし、人間というのは贅沢に慣れると、どうしても足元がおぼつかなくなる。光琳もその例に漏れませんでした。父親が亡くなり、莫大な遺産を相続した彼は、待ってましたとばかりに放蕩の限りを尽くします。茶の湯に興じ、能を舞い、美しい女性たちと遊び歩く。その遊びっぷりたるや、現代のセレブリティも真っ青になるほどの徹底ぶりでした。金などというものは、使えばなくなるという当たり前の事実に、彼は気づかないふりをしていたのかもしれません。

そして、運命の歯車は冷酷に回り始めます。湯水のように使った財産は底をつき、家業も衰退の一途。気がつけば、光琳は四十代半ばという、人生の折り返し地点で路頭に迷いかけていました。普通の人なら、ここで絶望して首でも括るか、あるいは質素に隠居するところでしょう。ところが、ここからが彼の「ミステリ」の始まりなのです。彼は、筆を手に取りました。それも、単なる趣味としてではなく、生きていくための「武器」としてです。かつて自分が遊びの中で見てきたもの、触れてきたもの、愛したもの。それらすべてを、彼は画面の上に叩きつけ始めたのです。

光琳の絵を見て、まず驚かされるのは、その潔いまでの「大胆さ」です。例えば、誰もが一度は目にしたことがあるであろう国宝「紅白梅図屏風」。画面の中央に、まるで巨大なうねりのような黒い川が流れ、左右に紅と白の梅が配されています。この川の描き方を見てください。流水の模様が銀泥で幾何学的に表現され、およそ現実の川とは思えないほど装飾的です。しかし、その歪んだ川こそが、見る者の心に消えない印象を刻みつける。

彼は、自然をそのまま写生しようなどとは微塵も考えていなかったのではないでしょうか。むしろ、自然を自分の頭の中で一度解体し、最も美しい「模様」として再構築した。そこに、呉服商の息子としての血が流れているのを感じずにはいられません。布地の柄をデザインするように、彼は世界をデザインしたのです。彼が描いたのは、単なる絵ではありません。それは、空間そのものを支配する「装置」でした。金箔を背景に、鮮やかな色彩が躍る。その華やかさの裏には、緻密に計算された構図の妙が隠されています。まるでパズルを解くように、どこに何を配置すれば最も効果的か。彼はそれを本能的に、あるいはこれまでの放蕩で培った審美眼によって知っていたのです。

しかし、光琳の人生は、常に華やかなスポットライトの下にあったわけではありません。彼は京都を離れ、江戸へと向かいます。当時の江戸は新興都市として活気に溢れていましたが、伝統ある京都の文化人から見れば、いささか野蛮な場所だったかもしれません。そこで彼は、多くのパトロンを見つけ、さらにその才能を開花させていきます。もう一つの傑作「燕子花図屏風」を思い出してください。金地の海に、ただ燕子花だけが整然と、しかしリズムを持って並んでいます。地面も背景も、何もない。ただ花だけがある。この引き算の美学。情報が溢れかえる現代に生きる私たちにとって、これほど贅沢な空間の使い方はありません。彼は、空白の中にこそ無限の意味が宿ることを知っていたのです。そんな光琳の私生活はどうだったかといえば、相変わらずどこか浮世離れした、危うい魅力を放っていました。金に困れば借金をし、それでも優雅な身なりを崩さない。彼の周りには常に謎めいた雰囲気が漂っていました。まるで、自らの人生そのものを一つの作品として演じているかのように。

光琳の文体——あえて絵画ではなく文体と呼ばせてください——は、極めてモダンです。三百年以上も前の人間が描いたとは思えないほど、そのデザインセンスは新しく、色褪せることがありません。現代のグラフィックデザイナーたちが、こぞって彼の作品からインスピレーションを受けるのも頷けます。彼は、江戸時代という枠組みを軽々と飛び越えて、未来を見ていたのかもしれません。さて、物語には必ず終わりがやってきます。享保元年、西暦一七一六年の六月。光琳は五十九歳でその波乱に満ちた生涯を閉じました。生まれた時のような富はもう手元にありませんでしたが、彼が残した作品という名の「宝石」は、時が経つほどにその輝きを増していきました。

光琳という男の生涯を振り返ってみると、そこには一種の「救い」があるような気がしてなりません。一度は人生に失敗し、何もかもを失いかけた男が、自分の内側にある美意識だけを信じて、再び立ち上がる。そして、歴史に名を刻むほどの仕事を成し遂げる。これは、どんなミステリ小説よりも劇的で、どんな人情話よりも心に響くエピソードだと思いませんか。

彼は決して、聖人君子ではありませんでした。むしろ、弱さも強欲さも兼ね備えた、極めて人間臭い人物だったと言えるでしょう。だからこそ、彼の描く花や川には、どこか艶めかしく、私たちの心を惑わせるような魔力が宿っているのです。読者の皆さん。もしもあなたが今、何かに立ち止まり、自分にはもう何も残っていないのではないかと不安になったなら、ふと光琳のことを思い出してみてください。人生の後半戦から始まった彼の快進撃を。そして、彼が金箔の上に咲かせた、あの凛とした燕子花の色を。美というものは、必ずしも清廉潔白な場所から生まれるわけではありません。泥沼の中から蓮の花が咲くように、放蕩と挫折のどん底から、日本一の美しさが生まれたのです。光琳は、その身をもって私たちに教えてくれました。人生は、いつからでも彩りを取り戻すことができるのだと。

彼の墓は、京都の妙顕寺にひっそりと佇んでいます。五十九年の短いようで濃密な旅を終えた男は、今、何を思っているのでしょうか。「いやあ、実に楽しい一生だったよ」と、あの軽やかな口調で笑い飛ばしている。そんな気がしてなりません。光琳という天才を育んだのは、京都という街の奥深さであり、また、彼自身の「諦めの悪さ」でもありました。彼は最後まで、自分を美しく見せることを、そして世界を美しく切り取ることを諦めなかった。その執念こそが、三百年後の私たちをも惹きつけてやまない、光琳ブランドの正体なのです。さあ、この長いお喋りも、そろそろ終わりにしましょう。光琳の絵を眺める時、あなたはそこに何を見ますか? 豪華な金の色ですか? それとも、その後ろに隠れた、一人の男の孤独な情熱ですか? どちらにせよ、彼があなたに仕掛けた「美の罠」に、もうどっぷりと嵌まっているはずです。それこそが、光琳が読者……いえ、鑑賞者の皆様に捧げた、最大にして最高のサービスなのですから。