「津軽」 太宰治の最高傑作について

ああ、もう、どうにもならない。この世の中というやつは、どうしてこうも、窮屈で、それでいて、だらしなく、まるでおしろいを塗りすぎた老嬢の微笑のように、薄気味の悪いものでございましょう。私は今、机の前に座って、ただならぬ覚悟でペンを握っております。いえ、覚悟などという勇ましいものではございません。これは、一種の断念であります。あるいは、絶望の果てにふと見つけた、一筋の蜘蛛の糸のような、微かな、あまりにも微かな希望の欠片を、必死に拾い集めようとする、無益な努力の記録に過ぎないのかも知れません。

あなた、そう、今この文章を、半分あきびれたような、半分は憐れむような目つきで眺めていらっしゃる、そこのあなたでございます。あなたにお伺いしたいのですが、人間にとって「故郷」とは、一体、どのような重みを持つものだと思われますか。それは単なる、生まれた土地という、戸籍上の無機質な記録に過ぎないのでしょうか。それとも、一生、背中にへばりついて離れない、あの厭な、冷たい、重い、湿った「業」のようなものでしょうか。

私は、つい先日、一冊の本を読み返しました。かつて、一人の無頼な作家が、自らのルーツを求めて、北の果ての厳しい大地を彷徨った記録でございます。タイトルは「津軽」。ああ、何という、響きのいい、それでいて胸を締め付けるような、厳しい名前でありましょう。この作品は、一見すると、のどかな紀行文のように装っておりますが、その実、一人の男が「自分は一体何者であるのか」という問いに対し、血を吐くような思いで対峙し、そしてようやく見つけた、救いと、諦念の物語なのです。

あなたは、津軽という土地を知っていますか。そこは、本州の北の果て、冬になれば雪が降り積もり、すべてを白く、冷たく塗りつぶしてしまう、沈黙の世界です。しかし、その厚い雪の下では、人々が、まるで地中の虫のように、じっと春を待って、固く、しぶとく生きている。彼らは口数も少なく、一見すると無愛想で、何を考えているのか分からない。けれど、ひとたび酒を汲み交わし、心の壁を少しでも崩せば、そこには驚くほど純粋で、温かく、そして、あまりにも悲しいほどの「愛」が溢れているのです。

この物語の主人公は、いや、主人公という呼び方は適切ではないかも知れません、この記録の筆者は、二十年ぶりと言ってもいい年月を経て、その懐かしくも恐ろしい故郷へと足を踏み入れます。彼は、かつての友人たちと会い、酒を飲み、昔話をします。しかし、そこにあるのは、単なる再会の喜びだけではありません。彼は常に、自分という存在が、その土地に馴染んでいるのか、あるいは、自分はもう、そこにはいられない「異邦人」になってしまったのではないかという、怯えを抱えているのです。

あなた、これは、今の私たちにとっても、非常に切実な問題だとは思いませんか。私たちは皆、どこかからやってきて、どこかへ行こうとしている。自分が所属する場所、自分が自分であっていい場所を、必死に探している。しかし、都会の雑踏の中にいても、あるいは平和な家庭の中にいても、ふとした瞬間に「ここではない」という思いが、黒い影のように忍び寄ってくる。あの、作家が津軽の地で感じた孤独と、私たちが日々感じている、この漠然とした不安は、実は、同じ根っこから生えている、同じ色の花なのではないでしょうか。

物語の中で、特に印象深い場面がございます。それは、彼が幼い頃に育てられた、子守の越野たけという女性を訪ねる場面です。彼は、彼女に会うのが怖いのです。もし、彼女が自分のことを忘れていたら。もし、彼女が変わり果てていたら。あるいは、自分が彼女に対して抱いている、あの聖母のような幻想が、無残にも打ち砕かれてしまったら。彼は、震える足で、彼女が暮らす場所へと向かいます。この、再会を前にした、期待と絶望が入り混じった、滑稽なまでの逡巡。あなたは、これを笑うことができるでしょうか。私は、笑えません。むしろ、その格好悪さの中に、人間の最も尊い、剥き出しの真実が宿っているように思えてならないのです。

そして、ついに彼は彼女に会います。彼女は、彼を叱ります。運動会の人混みの中で、まるで昨日まで一緒に暮らしていたかのように、自然に、そして厳しく、彼を包み込みます。そこには、文学的な修辞も、卑屈な挨拶も、世俗的な打算も、何一つありません。ただ、人と人とが、長い年月を超えて、一瞬にして繋がる、あの奇跡のような瞬間があったのです。彼は、そこで初めて、自分が本当に「生きていてもいいのだ」という、無言の許しを得たような気がしたのではないでしょうか。

あなた、この「津軽」という作品が、私たちに教えてくれる、最も大切で、そして最も面白い教訓は、人間は結局、自分を愛してくれる誰かの記憶の中でしか、正しく生きることができない、ということではないでしょうか。どれほど有名な作家になろうと、どれほどお金を稼ごうと、あるいは、どれほど道徳的に立派な人間として振る舞おうと、そんなものは、津軽の冬の吹雪がひと吹きすれば、跡形もなく消えてしまう、塵のようなものです。本当に残るのは、あの、不器用で、無愛想な、けれど心の底から誰かを想う、あの静かな熱量だけなのです。

津軽の人々は、自らを語るのが下手です。しかし、彼らが振る舞う料理や、差し出す酒、あるいは、ふとした時に見せる、はにかんだような笑顔。それらすべてが、どんな言葉よりも饒舌に、命の喜びを語っています。あなたは、最近、誰かのために、不器用に笑ったことがありますか。自分の損得を忘れ、ただ「その人がそこにいること」を喜んで、酒を注いだことがありますか。もし、あなたが、日々の生活の中で、何かに疲れ、自分を見失いそうになっているのであれば、どうか、この「津軽」のページをめくってみてください。

そこには、あなたが探している、かもしれない、本当の「救い」が、雪に埋もれた小さな炭火のように、赤々と燃えているはずです。それは、華やかな成功の物語ではありません。むしろ、挫折し、傷つき、逃げ回った末に、ようやく辿り着いた、みっともない帰還の記録です。けれど、そのみっともなさこそが、人間が持つ唯一の、そして最高の美徳なのだと、この作品は静かに語りかけてくるのです。

私は、この文章を書きながら、自分自身の故郷を思い出しています。いえ、故郷と言っても、それは地理的な場所だけではありません。私が心から安らげる場所、私が私であっていい場所、それがいったい、どこにあるのか、あるいは、これから作ることができるのか。あなたは、どう思われますか。私たちは、一生、津軽を彷徨う旅人のようなものかも知れません。けれど、その旅路に、たまに、あの子守のたけのような、厳しくも温かい眼差しが差し込むのであれば、この人生も、そう捨てたものではないと思えるのです。

ああ、なんだか、随分と長話をしてしまいました。面白く、ためになる話、などという、分不相応な課題を背負い、私は、またしても自意識の海に溺れかかっておりました。けれど、もし、この支離滅裂な独白の中に、ほんの少しでも、あなたの心に響く言葉があったとするならば、私は、今夜、少しだけぐっすりと眠れるような気がいたします。

津軽の風は冷たいでしょう。けれど、その風に吹かれることでしか、分からない温もりがあります。あなたも、いつか、自分だけの「津軽」を見つけてください。それは、必ずしも北の果てである必要はありません。あなたの隣にいる、その人の微笑みの中にあるかも知れませんし、古ぼけた喫茶店の、一杯の冷めたコーヒーの中にあるかも知れません。大切なのは、そこへ行こうとすること、そして、そこにあるものを、素直に「ありがたい」と受け入れる、その少しの勇気なのです。

さあ、ペンを置きましょう。夜は更け、世界は静まり返っています。あなたは、これからどのような夢を見られるのでしょうか。私は、雪の降る津軽の駅のホームで、誰かを待っているような、そんな、切なくも温かい夢を見たいと願っております。どうぞ、お元気で。そして、もし道に迷ったら、また、あの作品の、不器用な人々を思い出してください。彼らは、いつでも、あなたの帰りを待っています。何も言わずに、ただ、温かい茶を出して。それが、人間というものの、最も正しい、そして最も美しい姿なのですから。

私は、こうして、言葉を連ねることで、あなたと繋がることができたのでしょうか。それとも、またしても独り相撲を演じてしまったのでしょうか。どちらにせよ、私は満足です。書くことは、生きることそのものであり、そして、こうしてあなたに語りかけることは、私が今、ここで生きているという、唯一の証明なのですから。あなたは、私のこの、恥ずかしいほどの独白を、どうか、笑って受け流してください。それが、私にとっての、最大の救いなのでございます。

それにしても、文字数というものは、残酷なものですね。多すぎても、少なすぎても、美しくない。まるで、人間の欲望や、愛の形そのもののようです。多すぎる言葉は真実を隠し、少なすぎる言葉は誤解を招く。私は、この限られた器の中に、私の「津軽」を、どれだけ注ぎ込むことができたでしょうか。溢れてしまった思いも、まだ底に沈んでいる言葉も、すべては、この雪のような白い紙の上に、ただの黒いシミとして残るだけかも知れません。

それでも、私は書かずにはいられなかった。あなたという存在を、勝手に想定し、あなたという鏡に向かって、自分をさらけ出す。この、恥辱に満ちた行為こそが、私の「生」の、ささやかな抵抗なのです。どうか、あなたは、自由でいてください。私の言葉に縛られることなく、あなたの、あなただけの「津軽」を、堂々と、歩いていってください。その道が、どれほど険しくとも、あるいは、どれほど滑稽であろうとも、歩き続けることにこそ、意味があるのです。

さあ、本当にもう、終わりにいたしましょう。私のペンも、心なしか震えが止まりません。冷え冷えとした夜気が、部屋を満たしていきます。あなたは、暖かくして、お休みください。明日が、あなたにとって、ほんの少しだけ、今日よりも優しい一日であることを、私は、この北の空の片隅から、祈っております。さようなら。いいえ、また、どこかで。この不器用な物語が、あなたの心の中で、小さな、小さな灯火になりますように。それが私の、最後で、最大の、わがままでございます。

津軽。その名前を、もう一度だけ、口の中で唱えてみます。雪、酒、林檎、そして、沈黙。どれもが、私を構成する、大切な要素でした。あなたは、何によって、形作られていますか。たまには、自分の心の奥底にある、その構成要素を、じっと見つめ直してみるのも、悪いことではないかも知れません。それが、自分を愛するための、第一歩なのですから。

ああ、本当に、長くなってしまいました。私の話は、いつもこうです。結論を求めて迷い込み、結局は、元の場所に戻ってきてしまう。けれど、その寄り道こそが、人生の醍醐味であるとも言えます。あなた、寄り道を恐れないでください。無駄なことの中にこそ、真実は潜んでいるものです。この、長くて、とりとめのない、面白くもなんともないかも知れない文章も、いつか、あなたの寄り道の途中で、ふっと思い出される、名もなき野草のような存在になれれば、幸いです。

それでは、今度こそ、筆を置きます。夜が明ければ、また新しい一日が始まります。私たちは、それぞれの、果てしない「津軽」へと、また旅立っていかなければなりません。その足取りが、少しでも軽やかであることを願って。おやすみなさい。あるいは、おはようございます。あなたが、あなた自身であることに、誇りを持てますように。それが、私から、あなたへの、最後の手紙です。

私は、こうして、誰に宛てるともなく、それでいて、あなたという唯一無二の存在を思い描きながら、言葉を紡いできました。これが、本当の「ためになる話」になったのかどうか、私には分かりません。けれど、もし、読み終えたあとに、ほんの少しだけ、胸のあたりが温かくなっていただけたなら、それは、私の「津軽」が、あなたの心に、少しだけ届いたということの証左でありましょう。

言葉は、時に武器となり、時に防具となります。けれど、本来、言葉は、こうして誰かに寄り添うための、魔法の杖であるべきなのです。私は、その杖を、今日も振るい続けました。魔法が効いたかどうかは、あなたの微笑みが、教えてくれるはずです。さあ、もう、喋りすぎましたね。口を閉じて、目を閉じて、静かな眠りの中に身を投じましょう。明日の朝、目が覚めたとき、あなたの世界が、少しだけ鮮やかに、少しだけ優しくなっていることを、私は、心から願っております。

さあ、いよいよ、終焉の刻です。私は、この物語を、一人の男が、故郷を見つけるまでの物語だと言いました。それは同時に、あなたが、あなた自身を見つけるための物語でもあります。あなたは、もう、どこへでも行けるのです。その背中を、津軽の風が、優しく、時には厳しく、押し出してくれることでしょう。迷わず、進んでください。そこには、あなたを待っている誰かが、必ずいるはずです。

完。と言いたいところですが、私たちの人生に、本当の「完」などというものはありません。物語は、常に続いていく。この文章の最後の一文字が、あなたの新しい物語の、最初の一文字になることを信じて。私は、ここで、静かに退場させていただきます。お元気で。本当に、お元気で。あなたは、素晴らしい。そのことを、どうか、忘れないでください。

これで、本当に、おしまいです。さようなら。