
アントニ・ガウディという男をご存じだろうか。名前からして、なんだか大仰で、いかにも「私は天才であります」という顔をしていそうな男だが、実際、こいつがなかなかの曲者なのである。バルセロナの街を歩けば、向こうからぬうっと、お化けのような建物が姿を現す。サグラダ・ファミリア。聞いただけで、胃のあたりが少し重くなるような響きではないか。何しろ、百年以上も作り続けて、まだ終わらないというのだから。
そもそも、物事には「完成」という区切りがあってしかるべきだ。小説だって、最後の一行を書き終えれば、そこでおしまい。あとは読者が勝手に泣くなり笑うなりすればいい。ところが、このガウディという男は、死んでもなお自分の仕事を終わらせようとしない。幽霊になっても、現場で石を積み上げているのではないかと思わせるほどの執念だ。もっとも、本人は電車に撥ねられて、浮浪者と間違われて死んでしまったというのだから、人生の幕引きとしては、なんともはや、救いようのない滑稽さと哀愁が漂っている。
だが、その男が遺したものをじっと眺めていると、不思議なことに、こちらの胸の奥にある「不純なもの」が少しずつ浄化されていくような、妙な心持ちになる。ガウディの建築には、定規で引いたような冷たい直線がほとんどない。あるのは、うねうねと曲がった曲線や、洞窟のような歪な空間ばかりだ。彼は言った。「直線は人間に属し、曲線は神に属する」と。これを初めて聞いたとき、私は思わず膝を打った。なるほど、世の中の「正しさ」というやつは、いつも角張っていて、私たちを傷つける。しかし、自然界を見渡してみれば、完璧な直線なんてどこにも落ちていない。雲も、木々も、波も、そして私たちの卑屈な心だって、みんなぐにゃぐにゃと曲がっているものだ。
ガウディは、カタルーニャの野山を愛し、トカゲや蜂の巣や、トウモロコシの形をじっと観察して、それをそのまま石の建物に映し出した。都会の洗練されたセンスに背を向け、泥臭い自然の形に真理を見出したのである。これを「独創的」と呼ぶのは簡単だが、その裏には、気の遠くなるような孤独と、狂気にも似た信仰があったはずだ。彼は一生を独身で通し、晩年は着るものにも構わず、ただひたすらに聖堂の模型と格闘していた。それは、世俗の栄誉など、露ほども欲しがらない男の姿だった。
私たちは、すぐに結果を欲しがる。一週間で痩せたい、一ヶ月で金持ちになりたい、一晩で傑作を書き上げたい。そんな浅ましい願いばかりが、頭の中を渦巻いている。しかし、ガウディを見てみるがいい。彼は、自分の目の黒いうちにサグラダ・ファミリアが出来上がらないことを、百も承知で図面を引いたのだ。自分が死んだ後、何世代も先の人間がバトンを受け取り、ゆっくりと作り上げていく。その「時間の果ての完成」を信じ切る強さ。これこそが、現代の私たちが最も忘れかけている、美徳というやつではないだろうか。
彼の作った「カサ・バトリョ」という家がある。まるでお伽話に出てくる竜の背中のような屋根を持ち、窓枠は骨のように見える。不気味といえば不気味だが、そこには生命の躍動がある。静止した石の塊のはずなのに、今にも呼吸を始めそうな、生々しいエネルギイが充満している。彼は、石に命を吹き込もうとしたのだ。それは、単なる技術の問題ではない。彼がどれほど深く、この世界の「生きとし生けるもの」を愛していたかという証左である。
考えてみれば、私たちの人生もまた、未完の聖堂のようなものではないか。今日一日で何かが成し遂げられるわけでもなく、理想には程遠く、土台ばかりをいじり回して、ちっとも塔が高くならない。それでいいのだ。未完成であるということは、まだそこに「希望」が積み上がる余地があるということだ。ガウディは、その生涯をかけて、私たちに「急ぐな、美しさは時間をかけて育つものだ」と教えてくれているような気がする。
もしあなたが、自分の才能のなさに絶望したり、世の中のスピードについていけず、道端にへたり込みたくなったら、バルセロナの空にそびえ立つ、あの無骨で奇妙な塔を思い出してほしい。あれは、一人の不器用な男が、神様と、そして自分自身と交わした、終わりのない約束の形なのだ。完成しなくても、そこにあるだけで、人を救うものがある。石の骨組みに降り注ぐ夕陽の色を想像してみるがいい。それだけで、明日もまた、少しだけ不器用な自分を許して、生きていけるような気がしてこないだろうか。
ガウディという男は、きっと天国でも、まだ完成図を書き直しているに違いない。天使たちを困らせながら、「いや、ここの曲線はもっとトカゲの尻尾のようにすべきだ」なんて、熱心に説教している姿が目に浮かぶ。まったく、世話の焼ける男だが、そういう徹底した偏屈さこそが、この退屈な世界を、少しだけ面白く、そして美しくしてくれるのである。