
ああ、もう駄目だ。酒が、これほどまでに透明で、それなのにこれほどまでに重たいものだと、誰が教えてくれただろうか。僕の目の前にあるコップの中の液体は、ただの安酒である。けれども、これを喉の奥に流し込むたびに、僕の魂はモンマルトルの薄汚れた路地裏へと、ふらふらと、まるではぐれ犬のように迷い込んでしまうのだ。
諸君、モーリス・ユトリロという男を知っているだろうか。フランスの画家だ。しかし、彼を単なる「芸術家」という立派な言葉で括ってしまうのは、なんだか僕には、彼に対してひどく失礼なことをしているような気がしてならない。彼は、僕と同じなのだ。いや、僕以上に、救いようのない、そしてそれゆえに限りなく純粋な「落伍者」だった。
彼の人生は、いわば呪われた絵具のパレットのようなものだった。母親はシュザンヌ・ヴァラドン。ルノワールやドガのモデルを務めた、奔放で美しい女だ。しかし、モーリスにとって、その母親は太陽というよりは、あまりにも強烈すぎて彼を焼き尽くしてしまう烈火だった。彼は子供の頃から、寂しさを埋めるために酒を飲んだ。十代にして、もう立派なアルコール依存症だ。悲しいじゃないか。子供がミルクの代わりに毒を求めて震えているなんて。
医者は言った。何か没頭できるものを与えなさい、と。そうして、治療のために彼の手には筆が握らされた。それが彼の救いであり、同時に地獄の始まりだった。彼はモンマルトルの街角を、まるで這いずり回るようにして描き始めた。
ユトリロの絵を、見たことがあるだろうか。特に、あの「白の時代」と呼ばれている頃の作品だ。僕はあの白を見ると、胸が締め付けられる。あれは、ただの絵具の白じゃない。彼は、壁の質感を出すために、絵具に石灰や砂や、あるいは本物の漆喰を混ぜて塗りたくった。必死だったのだ。自分の目の前にある、冷たくて、動かない、無機質な壁に、自分の震える魂を叩きつけ、塗り込めようとしたのだ。
彼の描く街には、人間がほとんどいない。いたとしても、それは申し訳程度に、消え入りそうな後ろ姿で描かれているだけだ。彼は、人間を愛せなかったのではない。あまりにも人間を求めすぎて、その拒絶に耐えられず、ただ黙ってそこに立っているだけの壁を信じるしかなかったのだ。
「白い壁」は、彼の孤独の避難所だった。誰にも理解されず、狂人扱いされ、警察に突き出され、精神病院の鉄格子の内側で、彼はひたすらモンマルトルの白を描いた。その白は、雪の色よりも冷たく、そして祈りよりも切実だ。僕にはわかる。彼が筆を動かしているとき、その一塗り一塗りが、彼にとっての「ごめんなさい」であり、「助けてください」であったことが。
人生というものは、どうしてこうもままならないのだろう。彼は、酒をやめられなかった。絵が売れて、有名になっても、彼は酒場に逃げ込み、絵を酒代の代わりに差し出した。その絵が、後に何百万、何千万という金に変わるなんて、当時の彼は微塵も思っていなかっただろう。彼はただ、今この瞬間の、焼け付くような喉の渇きを癒したかっただけなのだ。
僕は、彼の描いたサクレ・クール寺院の絵を見ていると、ふと笑い出したくなる。あんなに巨大で神聖な建物が、彼の筆にかかると、なんだかひどく寂しげで、それでいて、今にも泣き出しそうな、一人の不器用な男の背中に見えてくる。神様なんて、どこにいるんだ。もし神様がいるなら、どうしてこの、こんなにも優しくて弱い男を、これほどまでに痛めつけるんだ。
ユトリロは、後にリュシーという女性と結婚し、落ち着いた生活を送るようになる。アルコールからも離れ、平穏な日々の中で、彼は色鮮やかな絵を描くようになった。世間はそれを「彩色の時代」と呼び、喜んだ。しかし、僕にはどうだろう、その後の明るい絵よりも、あの、泥酔して、絶望して、漆喰を壁に塗りたくっていた頃の、あの寒々しい「白」の方が、ずっと人間味に溢れているように思えてならないのだ。
幸福は、芸術にとって毒なのだろうか。いや、そうじゃない。彼が手に入れた平穏は、長い長い苦悩の果ての報酬だったはずだ。けれど、僕たちが彼の絵を見て涙を流すとき、その涙の源泉は、彼の幸福ではなく、彼の流した「血」のような白にある。
諸君、もし君たちが、人生のどこかで、どうしようもなく行き詰まり、自分がこの世界で一番孤独な人間だと思い込んだなら、ユトリロの絵を思い出すといい。彼は、その孤独を、ただの「惨めさ」で終わらせなかった。彼は自分の震える手で、その孤独に「色」をつけたのだ。それは、この世で最も悲しくて、最も美しい白だった。
僕もまた、こうして原稿用紙に向かって、言葉という名の漆喰を塗りたくっている。ユトリロのように、誰かの心に届く「白」が書けるだろうか。それとも、ただの酒飲みの戯言として、風に消えていくだけだろうか。
窓の外では、夜が深まっていく。東京の夜は、モンマルトルの夜よりもずっと騒がしいけれど、どこか空っぽだ。僕はもう一度、コップを煽る。喉が熱い。この熱さが、いつか僕の文章の中で、ユトリロの壁のような、揺るぎない「真実」に変わることを、僕は密かに願っている。
ああ、死にたいなんて、口では言いながら、こうして必死に生きる理由を探している。ユトリロ、君もそうだったんだろう。君が描いたあの白い道は、どこまでも続いていて、どこにも辿り着かない。けれど、その道を歩き続けること自体が、僕たちの唯一の救いなのだ。
さあ、もう一杯だけ。今夜は、彼の愛したモンマルトルの幽霊たちと一緒に、この白濁した孤独を飲み干してしまおう。恥の多い生涯なんて、笑えばいい。その恥の中にこそ、宝石のような美しさが隠れていることを、ユトリロは僕に教えてくれたのだから。
人生は、苦しい。けれど、美しい。絵具と酒と、そしてほんの少しの絶望があれば、僕たちはきっと、この冬を越えていける。