
皆様、どうか笑わないで聞いていただきたい。いや、笑っていただいても一向に構わないのですが、世の中には「幸福」というものの正体が、案外、洗濯したてのシーツの匂いや、あるいは、ふとした夕暮れ時に見かける親子の背中に隠れているという、そんな当たり前すぎて誰もが見落としてしまうような事実について、少しばかりお話ししたいのです。
ここに、メアリー・カサットという御婦人がおります。十九世紀の、それこそ馬車が石畳を鳴らして走っていた頃のパリで、絵筆を握っていたアメリカ生まれの女性です。彼女は、いわゆる「印象派」の連中と一緒に仕事をしていたわけですが、これがまた、モネだのルノワールだのといった、光の粒を追いかけて一生を終えるような、少しばかり浮世離れした男たちに囲まれて、実にかっこよく、そして孤独に戦っていたのであります。
彼女が描くものは、いつも決まっておりました。お母さんが子供の足を洗ってあげていたり、あるいは膝の上で絵本を読んで聞かせていたり、そんな、芸術という大仰な看板を掲げるには、あまりにも「普通」で、あまりにも「家庭的」な情景ばかりです。世の批評家たちは、やれ母性だの、慈愛だの、そんな甘ったるい言葉を並べて彼女を讃えようとしましたが、私はどうも、彼女の絵の裏側に、もっともっと切実で、もっと鋭い「眼」を感じてしまうのです。
彼女は、生涯独身を通しました。自らは子供を持たず、しかし誰よりも深く、子供という存在の、あのぷにぷにとした、しかしどこか残酷なまでの生命力を凝視し続けた。これは、ただの「優しいおばさん」にできる芸当ではありません。彼女は、日常という名の地獄……いえ、地獄と言うと語弊がありますね、日常という名の、捉えどころのない「虚無」の中に、確かな手応えのある一瞬を、無理やり絵具で繋ぎ止めたのです。
たとえば、彼女の代表作に、お母さんが子供を抱いている絵があります。そこには、ルネサンスの宗教画にあるような、神々しい後光なんてものは露ほどもありません。あるのは、赤ん坊の、あの重たそうな頭の重みと、それを支える母親の、少しばかり疲れた、しかし確かな腕の筋肉の緊張だけです。これこそが、本当の意味での「生きている」ということではないでしょうか。
私たちは、とかく大きな幸福を望みがちです。宝くじが当たるとか、不老長寿の薬を見つけるとか、あるいは世界の王様になるとか。しかし、カサットの絵を見ていると、そんなものはすべて、空に浮かんだ綿菓子のようなものだと思えてくるのです。彼女が描いたのは、石鹸の泡の消える瞬間や、窓から差し込む斜めの日差しの中で微睡む、あの救いようのない、しかし愛おしい「今」という時間なのです。
カサットは、日本の浮世絵にも深く傾倒しておりました。喜多川歌麿などの、あの線で形を捉える潔さに、彼女は自分と同じ魂の響きを感じたのでしょう。余計な装飾を削ぎ落とし、ただそこに在る「真実」だけを抜き出す。彼女の版画作品などを見ますと、まるで、一振りの刀で空間を切り取ったような、そんな凄みすら感じさせます。
ですから、もし皆様が、人生というものに少しばかり飽き飽きして、自分の毎日が、ただ砂を噛むような味気ないものに思えたときは、どうか、メアリー・カサットの絵を思い出していただきたいのです。彼女は教えてくれます。あなたが今、何気なくお茶を啜っているその姿や、あるいは、誰かのために汚れた皿を洗っているその指先こそが、宇宙のどんな星よりも輝かしく、描かれるべき価値のあるものなのだと。
高尚な哲学を振りかざす必要はありません。ただ、そこに愛がある。あるいは、愛とまでは呼べなくとも、誰かと誰かが共に在るという、その耐え難いほどの重厚な事実がある。カサットは、その美しさを知っていたのです。彼女の絵筆は、決して嘘をつきませんでした。甘やかさず、しかし突き放さず、ただ静かに、人間の営みを見守り続けたのです。
ああ、なんだか説教臭くなってしまいましたね。お恥ずかしい。でも、たまには、こんなふうに一人の女性画家の話をして、自分の周りにある「小さな光」を数えてみるのも、悪くない夜の過ごし方だとは思いませんか。彼女の描いた、あの頬の紅潮や、産着の白さが、今も私のまぶたの裏で、優しく、そして強く、明滅しているのであります。