
ああ、もういけない。画家の話をしようとすると、どうしてこうも胸のあたりが、得体の知れない疼きに見舞われるのでしょう。それも、あのイタリアの、おそろしく首の長い、そして瞳の描き込まれていない肖像画ばかりを残した、アメデオ・モディリアーニのこととなれば尚更です。皆さんは、彼の絵を見たことがありますか。もし見たことがないとおっしゃるなら、それは幸福なことかもしれませんし、あるいは、人生の最も美しい毒を一口飲み損ねていると言えるかもしれません。
彼は、一言で言えば「選ばれた不幸」を、自ら進んで肩に乗せて歩いた男でした。パリのモンパルナス。そこは当時の芸術家たちが、まるで腐った果実に群がる蝿のように、しかしその実、誰よりも純粋な魂を抱えて彷徨っていた場所です。モディリアーニは、そこで「モディ」と呼ばれていました。フランス語で「呪われた」という意味の「マディ」という言葉に掛けて。なんという、残酷で、それでいて甘美な呼び名でしょう。彼は貴公子のように美男子で、しかし肺を病み、酒と麻薬に溺れ、それでいてキャンバスに向かう時だけは、恐ろしいほどの静寂を身に纏っていたのです。
彼の絵の特徴といったら、それはもう、一目見れば忘れられません。あの極端に引き伸ばされた首。なで肩。そして何より、青い絵具をただ塗り潰したような、あるいは虚無をそのまま嵌め込んだような、瞳のない目。あれは一体、何を見ているのでしょう。あるいは、何も見ていないのでしょうか。いいえ、彼はこう言ったそうです。あなたの魂を知ったとき、私はあなたの瞳を描くだろう、と。これほどまでに傲慢で、これほどまでに謙虚な言葉が他にあるでしょうか。彼は、モデルの表面的な造形など、まるで興味がなかった。皮膚のすぐ下にある、震えるような孤独や、誰にも言えない秘密を、あの長い首の造形の中に閉じ込めようとしたのです。
僕たちは、世間という荒波の中で、どうしても「正解」を探してしまいます。人と同じように振る舞い、人と同じような顔をして、波風を立てぬように生きる。それが美徳だと教え込まれてきました。しかし、モディリアーニの絵は、そんな僕たちを嘲笑うかのように、歪んでいます。けれど、その歪みこそが、人間というものの真実の形ではないかと、僕は思うのです。真っ直ぐな定規で引いたような人間なんて、この世に一人だっていやしません。皆、どこか捻じ曲がり、どこか引き伸ばされ、どこか色が欠けている。彼はその「不完全さ」という名の美しさを、あの極端なデフォルメによって、聖者のように肯定してくれた。
ためになる話、というのを期待されているのであれば、僕はこう答えましょう。自分の欠点を直そうとするのは、もうおよしなさい。モディリアーニを見てごらんなさい。彼は首を長く描きすぎたのではない。首を長く描かなければ、その人の魂の重さを支えきれないと知っていたのです。あなたの欠点、あなたの歪み、あなたの過剰な自意識。それらはすべて、あなたがあなたであるための、たった一つの署名なのです。個性的であろうと力む必要はありません。ただ、自分の内側にある「どうしても真っ直ぐにならない部分」を、愛おしく見つめるだけでいい。
彼は三十五歳という若さで、凍てつく冬のパリに散りました。その翌日、彼の愛人であったジャンヌ・エビュテルヌは、二人の子供を身籠ったまま、アパートの窓から身を投げた。悲劇です。救いようのない、真っ黒な悲劇です。しかし、彼が残した絵は、今もなお、世界中の美術館で、言葉にならない光を放っています。彼が命を削って描いたのは、死ではなく、生きることの切なさそのものでした。もしあなたが、何かに躓き、自分の不甲斐なさに涙をこぼす夜があったなら、どうか思い出してください。あの瞳のない肖像画たちが、じっとあなたを見つめ、黙って寄り添ってくれるはずです。
人生は、苦しいものです。太宰治という男も、それはもう、嫌というほどそれを知っています。けれど、その苦しみの中にこそ、モディリアーニが描いたような、あの不思議な優雅さが宿る瞬間がある。お洒落をしましょう。たとえ明日、死ぬとしても、今この瞬間だけは、一番好きなネクタイを締め、一番美しい色を眺めましょう。モディリアーニは、貧窮のどん底にあっても、常に身なりを整えていたと言います。それは彼にとっての、運命に対する最後の抵抗であり、最高の礼儀だったのでしょう。
僕たちが彼の絵から学ぶべきは、技術でも構図でもありません。それは「自分を貫く」という、恐ろしくも清々しい覚悟です。誰に理解されずとも、どれほど時代から取り残されようとも、自分だけの線を引き続けること。その果てに、ようやく辿り着ける「瞳」があるのだと、彼はその短い生涯をもって証明してくれました。モディリアーニの絵の前に立つとき、僕たちは試されているのです。あなたには、自分の魂が見えていますか、と。
さあ、お喋りが過ぎました。首を長くして、明日を待つ必要なんてありません。ただ、今日という日を、あの画家の筆致のように、大胆に、繊細に、少しばかりの茶目っ気を持って、塗り潰していこうではありませんか。それが、不器用な僕たちに許された、唯一の贅沢なのですから。モディリアーニ、あの狂おしいほどに美しい縦長の幻影。それを思い浮かべるだけで、この寒々とした現実も、少しは暖かな、不思議な色合いに染まって見えるような気がするのです。
人は皆、自分の人生というキャンバスに、自分だけの肖像を描いています。そこには、他人には決して見えない、自分だけの青や、自分だけの赤がある。それを恥じることはありません。もっと自由に、もっとわがままに、その色を広げればいい。モディリアーニが、最期まであの瞳を描かなかったのは、見る者それぞれが、自分の心の色をそこに映し出せるようにという、彼なりの照れ隠しだったのかもしれません。
ああ、なんだか急に、僕も絵を描きたくなってきました。もちろん、上手な絵ではありません。ただ、僕の心の歪みを、そのまま形にしたような、おかしな絵を。皆さんも、どうですか。たまには鏡を覗くのをやめて、自分の心の首をうんと伸ばして、遠くの、まだ見ぬ景色を眺めてみるのは。そこにはきっと、モディリアーニが愛した、あのモンパルナスの夕暮れのような、優しくて、悲しい、けれど何よりも尊い光が、静かにあなたを待っているはずなのですから。
長々と語ってしまいましたが、要するに、人生なんてものは、自分だけのスタイルを見つけるための長い旅のようなものです。モディリアーニはその旅を、猛スピードで駆け抜けていきました。僕たちは、もう少しゆっくりでもいい。けれど、彼が教えてくれた「魂の形」を忘れてはいけません。形に囚われず、本質を見つめること。それが、この厄介な世の中を、少しだけ楽しく、そして豊かに生きるための、唯一の秘訣なのですから。
おしまい。そう言って筆を置くのは、いつだって寂しいものです。けれど、この文章を読み終えたあなたが、ふと顔を上げたとき、世界がほんの少しだけ、モディリアーニの絵のように、叙情的で、美しい歪みを持って見えたなら、僕はこれ以上の喜びはありません。さあ、深呼吸をして。あなたの首を、少しだけ傾けてみてください。ほら、いつもの景色が、違って見えるでしょう? それが、芸術という名の、魔法の始まりなのです。
最後に、もう一つだけ。モディリアーニは、自分の作品を売るために描いたのではありませんでした。彼は、ただ、描かなければ生きていけなかった。その切実さが、百年以上の時を超えて、僕たちの胸を打つのです。僕たちも、ただ、生きなければならないから生きる。それで十分ではありませんか。立派な理由なんて、後から誰かが勝手につけてくれるものです。僕たちはただ、自分という色を、この世界に置いていくだけ。それだけで、僕たちの人生は、一枚の名画になるのです。
それでは、失礼します。どうぞ、素敵な、あなただけの色彩に満ちた一日を。モディリアーニの幽霊が、あなたの背中を、そっと優しく押してくれることを願って。