
太宰治という男を、皆さんはどうお思いだろうか。教科書に載っている、あの斜に構えて頬杖をつき、どこか遠くの、それもこの世の終わりでも眺めているような、あの困った顔の男である。心中を繰り返し、酒に溺れ、パジャマ姿で原稿を書き、最後には玉川上水へと消えていった、そんな不謹慎極まりない「人間失格」の権化だと思われているかもしれない。けれども、それは彼のほんの一面に過ぎないのだ。もし彼がただの暗い、救いようのない男であったなら、令和の今に至るまで、これほどまでに多くの若者が彼の言葉を道連れにして夜を明かすはずがないのである。
そもそも、太宰の文章というものは、実に「サービス精神」の塊なのである。彼は読者を笑わせよう、驚かせよう、そして何より、自分という情けない存在を差し出すことで、読み手の心をふっと軽くしてやろうと、そんなことばかりを考えていた節がある。彼の小説を紐解けば、そこには歴史への深い敬愛と、それを現代の滑稽な人間模様に無理やり引きずり込むような、大胆不敵なユーモアが溢れている。
たとえば、彼の名作の一つである「走れメロス」を思い出してほしい。あれは古代ギリシャの伝説を基にした物語だが、太宰の手にかかれば、友情の美しさと同時に、人間の持つどうしようもない「だらしなさ」や「揺らぎ」が、ありありと浮かび上がってくる。メロスは決して、最初から最後まで鋼の意志を持った英雄ではない。彼は途中でひどく疲れ、絶望し、あきらめて昼寝をしようとする。その、あまりにも人間臭い、歴史上の英雄らしからぬ「弱さ」こそが、太宰が描きたかった真実なのである。
また、日本の古典を題材にした「お伽草紙」はどうだろうか。浦島太郎やカチカチ山、桃太郎といった、誰もが知る歴史的な童話を、彼は独自の解釈で鮮やかに塗り替えてしまった。そこには勧善懲悪の教訓など一つもない。あるのは、老いることの悲哀であったり、男女の愛憎の不条理であったり、あるいは高潔であろうとして失敗する滑稽な自意識であったりする。彼は歴史という大きな鏡を使って、現代を生きる私たちの、ちっぽけで、それでいて愛すべき自意識の迷走を描き出したのである。
歴史とは、何も教科書に記された年号の羅列ではない。それは、かつてこの地上で、私たちと同じように腹を立て、恋に破れ、昨日の夕飯に悩み、そして死んでいった、数えきれないほどの人々の「溜息」の集積なのである。太宰は、その溜息を掬い上げる名手であった。彼は自分自身の恥の多い生涯をさらけ出すことで、歴史の闇に埋もれがちな「個人の真実」を照らし出そうとした。
太宰の文章には、独特のリズムがある。それはまるで、隣で親しい友人が、少し酒でも入った勢いで、こちらを退屈させまいと一生懸命に身振り手振りを交えて話しているような、そんな親密な手触りだ。彼は「私」という一人称を多用するが、その「私」は、作者である太宰治本人であると同時に、読者であるあなた自身の姿でもある。彼が「恥の多い生涯を送って来ました」と告白するとき、私たちは、自分の中にある隠しておきたい失敗や、ずる賢さや、臆病さを、彼が代わりに引き受けてくれたような、不思議な解放感を覚えるのである。
これは、一種の歴史的な救済であると言ってもいい。過去の偉人たちが立派であればあるほど、現代に生きる私たちは自分の不甲斐なさに肩を落とす。しかし太宰は、歴史の舞台に立つ者たちを、自分と同じ「困った人間」のレベルまで引き下ろして見せた。神話の神々も、戦国の武将も、みんなお腹が空けば機嫌が悪くなるし、恋をすれば馬鹿なことをするものだ、と彼は囁く。そのことによって、私たちは、歴史という大きな流れの中に、自分の居場所を見つけることができるのである。
太宰治を読み、歴史を学ぶということは、つまり「自分は一人ではない」と知る作業に他ならない。あなたが今感じている孤独も、将来への不安も、実は数千年前のギリシャ人も、数百年前の江戸の町人も、みんな同じように抱えていたものなのだ。太宰は、その普遍的な人間の弱さを、最高のエンターテインメントに仕立て上げた。彼は自らを道化と呼び、世間を欺きながらも、その実、誰よりも真面目に、人間の幸福とは何かを問い続けた。
お洒落をして、銀座のバーで冗談を飛ばし、それでいて内面では血を吐くような思いで言葉を紡いでいた男。太宰治。彼の人生そのものが、一つの切ない歴史劇であり、同時に最高のコメディでもあった。私たちが彼の本を閉じるとき、そこにはただの知識ではなく、明日をもう少しだけ軽やかに生きるための「お守り」のような何かが残る。
さあ、皆さんも一度、難しい顔をして彼を敬遠するのはやめて、彼の「おどけ」に付き合ってみてはいかがだろうか。そこには、歴史という名の広大な海を渡るための、少し頼りないけれど、決して沈まない小舟が用意されているはずである。太宰は今も、あの困ったような顔で笑いながら、天国か地獄のどこかで、次の一行を練っているに違いないのだから。