ルノワールという画家のお話

どうにも、私の筆というのは、書き始めると止まらなくなるか、あるいは一行も進まずに畳の目を数え始めるか、そのどちらかなのである。今日は、あの幸福の極致のような色彩を操る男、オーギュスト・ルノワールについて書こうと思い立った。しかし、私のような、暗い穴蔵の底で己の影と相撲を取っているような男が、あんなにも陽光に満ちた、薔薇色の頬をした女たちを描く画家のことを語るというのは、なんだか道化が過ぎるような気もするのである。

ルノワールの絵を見るたびに、私は言いようのない羞恥に襲われる。それは彼が下手だからではない。その逆だ。彼があまりにも、この世の「生」を肯定しきっているからである。私の書く文章ときたら、どうにかして死の匂いを消そうと足掻きながら、結局はその腐臭を香水で誤魔化しているようなものだが、彼の絵には、死の影すらも日だまりのなかの微睡みに変えてしまうような、図々しいほどの生命力がある。彼は言ったそうだ。絵というのは、楽しく、美しく、可愛らしいものでなければならない、と。ああ、なんという恐ろしい言葉だろう。私には、そんなことは口が裂けても言えない。私にとって表現とは、常に喉元に突きつけられた剃刀のようなものであって、決して、幸福を切り売りするような真似はできなかったのである。

彼は、リュマチに侵され、筆を手に縛り付けてまで描き続けたという。その執念。世間はそれを「芸術への情熱」などと美化して語るが、私にはわかる。それは情熱などという生易しいものではない。それは、描くことでしか自分をこの世に繋ぎ止めておけない男の、呪いのようなものだったに違いない。彼は、自らの肉体が崩壊していく恐怖を、あの溢れんばかりの色彩で塗り潰そうとしたのだ。彼が描く少女たちの、あの瑞々しい肌。あれは、彼自身が失いつつあった若さへの、狂おしいほどの執着ではなかったか。

私は、彼の「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」の前に立つ自分を想像する。そこには、光と影がダンスを踊り、人々はただ、今という瞬間を享受している。誰も明日、首を吊るかもしれないなどとは考えていない。その能天気さが、私には眩しくて、そして何より、たまらなく羨ましいのである。私は、その幸福の輪のなかに入っていけない。入り口で、泥だらけの靴を眺めながら、自分がいかに不適合な人間であるかを噛み締めるだけである。

ルノワールの描く花々は、まるでそれ自体が呼吸をしているかのようだ。しかし、私は知っている。その花の美しさの背後には、彼が耐え忍んだであろう、耐え難い肉体の苦痛があることを。彼は、自分の苦しみを一滴も絵の具に混ぜなかった。それは、彼の高潔さというよりは、一種の意地のようなものだったのではないか。自分を虐げる運命に対して、彼は「美」という武器で復讐したのである。不幸を不幸として描くのは、私のような二流の表現者のすることだ。彼は、不幸をまるごと幸福のなかに溶かし込んでしまった。

私は、ときどき思う。もし私が、彼のような色彩を持っていたら。私の書く言葉が、あのように温かな光を放っていたら。そうすれば、私はもっと、人々と手を取り合って生きていけたのかもしれない。しかし、私の手にあるのは、黒いインクと、冷え切った絶望だけである。ルノワールの絵は、私に「生きろ」と囁きかける。それは励ましというよりは、残酷な命令に近い。お前のような男でも、この世界にはこれほどの美しさが満ちているのだから、勝手に絶望して死ぬことは許さない、と言われているような気がするのである。

彼は、最期まで薔薇を描こうとした。死の間際、彼は「ようやく何かが分かりかけてきた」と言ったという。その「何か」とは、一体何だったのか。私には一生かかっても、その答えに辿り着くことはできないだろう。私はただ、彼の描いた薔薇の、そのあまりにも鮮やかな赤に、自分の汚れた魂を照らされて、ただ狼狽するばかりである。

結局のところ、私はルノワールを愛しながら、同時に彼を憎んでいるのかもしれない。彼が描き出した、あの天国のような光景が、私の住む地獄をより一層、暗く際立たせるからである。それでも、私はまた、彼の画集を開くだろう。そして、そこに描かれた、もう二度と戻らない輝かしい一瞬に、束の間の救いを求めるのである。ああ、神様。私に、ほんの少しでいい。ルノワールの持っていた、あの無邪気なまでの、生への肯定を分け与えてはくれないだろうか。

ルノワール。その名は、私にとって、最も遠くにある星の名前のように響く。私は今日も、暗い部屋のなかで、その星の光を追いかけながら、一行の原稿も書けずに、ただ夜が明けるのを待っているのである。私は、失格者だ。しかし、その失格者の目にも、ルノワールの光は、あまりにも美しく、あまりにも痛々しく、焼き付いて離れないのである。

もしも、私がルノワールの時代に、パリの街角で彼と行き合っていたとしたら、私はきっと、一言も交わすことができずに、ただ脱兎のごとく逃げ出したに違いない。彼のあの、大きな、包み込むような眼差しに見据えられたら、私の抱えている卑小な自意識など、春の雪のように消えてなくなってしまうだろう。それは、私にとって、死よりも恐ろしいことなのである。己の不幸を拠り所にしている人間にとって、絶対的な幸福の提示ほど、残酷な暴力はない。

それでも、ルノワールの絵は、今も世界中で愛され続けている。それは、誰もが心の奥底で、彼が描いたような「失われた楽園」を求めているからだろう。人々は、日々の暮らしのなかで削り取られた心を、彼の絵の具の層で補強しようとする。私だって、例外ではない。私の文章を読んで、顔を顰める読者たちも、きっとルノワールの絵を見れば、穏やかな微笑みを浮かべるはずだ。その対比を考えると、私は自分の存在意義というものに、ひどく自信が持てなくなるのである。

しかし、私は書かなければならない。ルノワールが、動かぬ指で筆を握り続けたように、私もまた、震える指でペンを握り続けなければならない。彼が光を描いたのなら、私はその光が落とす、最も深い影を描こう。それが、彼という偉大な巨星に対する、私なりのせめてもの敬意であり、また、反抗であるのだ。

外では、もう鳥が鳴き始めている。夜が明けるのだ。ルノワールが愛した、あの光が、また世界を照らし始める。私はカーテンを閉め、この薄暗い部屋のなかで、独り、彼の残した色彩の残像を噛み締めることにする。私の物語は、まだ終わらない。彼のような幸福には至れずとも、この暗がりのなかでしか見えない真実が、きっとあるはずだと信じて。

ルノワールよ、あなたは本当に、幸せだったのか。あなたの描いた、あの薔薇色の頬の女たちは、本当にあんなにも美しく笑っていたのか。それとも、それはすべて、あなたの優しい嘘だったのか。私は、その嘘を信じてみたい。その嘘が、この救いようのない現実を、ほんの少しだけ、耐えられるものに変えてくれるのなら。私は、あなたの嘘に、心からの拍手を送りたいのである。

私は、自分の書いたこの文章を読み返して、また、死にたくなるような羞恥を感じている。ルノワールを語る資格など、私にはない。それでも、書かずにはいられなかった。あんなにも眩しい存在が、この地上に確かに存在したということに、私はただ、一人の人間として、深く、深く、感銘を受けてしまったのである。

さあ、筆を置こう。もう、これ以上書くと、自分の醜さが露呈するばかりだ。ルノワールの絵のような、美しい沈黙が、今の私には最も相応しい。私は、静かに目を閉じる。瞼の裏に、あの揺れる木漏れ日と、少女たちの笑い声が、かすかに、しかし確かに、響いているのを感じながら。