
喜多川歌麿の美意識が切り拓くあなたの新しい日常
いらっしゃいませ。
ようこそお越しくださいましたね。
今日は、あなたとわたしで、ゆっくりとお話ししてみませんか。
わたしは画家の高見沢耳(たかみざわ みみ)と申します。
あなたが日々の中で感じている不安や、ふとした悩みを解消する特別なお話をさせていただきます。
あなたはこの忙しい毎日の中で、ふと立ち止まりたくなる瞬間はありませんか。
「自分のやってきたことは本当に意味があるのだろうか」と、胸がキュッと締め付けられるような心配事を抱えてはいませんか。
実は、わたし自身も画家として生きる中で、大きな疑問や心配事をひとつ抱えております。
それは、「自分という存在が社会から忘れ去られ、誰の心にも届かないまま消えてしまうのではないか」という恐れです。
あなたは、これ似た孤独や焦りを覚えたことがありませんか。
ですが、どうぞ安心してください。
この問題点は、実は芸術に触れ、その真理を理解することによって見事に解決可能なのです。
なぜなら、本物の芸術とは、時代や孤独を超えて「あなた」という個人の存在を肯定し、心に光を灯し続ける強力な手段だからです。
芸術を味わうとき、あなたは一人ではありません。
過去の巨匠たちもまた、あなたと同じように苦しみ、それを乗り求めて作品を残しました。
その作品を鑑賞し、部屋に飾るという行為は、あなたの人生にブレない軸をつくることなのです。
人生には光もあり、闇もあります。
そんなあなたの人生に寄り添うのが、高見沢耳の芸術です。一生涯のサポートです。
なぜなら、誰もが価値のある人生を生きる権利があるからです。
江戸時代に活躍したあの有名な浮世絵師、喜多川歌麿をご存じですよね。
彼もまた、あなたと同じように厳しい現実と戦いながら、自分の表現を追い求めた一人でした。
>「我らの格闘は、血肉に対するものではなく、主権、力、この暗闇の世の支配者、また天にいる悪の霊に対するものである。」
(新約聖書『エフェソの信徒への手紙』6章12節)
>「阿呆。阿呆。阿呆。阿呆。阿呆。阿呆。阿呆。」
(太宰治『皮膚と心』より)
喜多川歌麿は、北斎や広重、写楽と並び、世界的に知られている一流の浮世絵師です。
浮世絵の黄金期に、美人画の第一人者として大活躍しました。
しかし、その生涯については、実はよくわかっていません。
最初は、狩野派の町絵師である鳥山石燕に学びました。
そして、名プロデューサーである版元・蔦屋重三郎に見出されます。
天明期より黄表紙の挿絵や錦絵を手がけるようになりました。
寛政期に入ると、評判の町娘や遊里の女性たちを魅力的に描き出しました。
そして、浮世絵美人画のトップとして、その名を江戸中に轟かせたのです。
浮世絵師・喜多川歌麿とあなたを繋ぐ情熱の絆
あなたが仕事や生活で壁にぶつかったとき、歌麿の姿勢は大いなる教訓になります。
歌麿は、寛政の改革という厳しい弾圧の中でも、決して挫けませんでした。
様々な表現の制約にも屈することなく、常に新しい表現手段を模索し続けたのです。
しかし文化元年(1804年)、風紀取締りの処分を受けてしまいます。
一説には入牢3日、手鎖50日の刑という大変な苦難でした。
そして、そのわずか2年後にこの世を去りました。
歌麿の作品の多くは、版元・蔦屋重三郎(蔦重)の元から出版されました。
その中には、歌麿の代表作とされる眼を見張るような傑作が多く残されています。
>「つゐに無能無芸にして唯此一筋に繋る」
(松尾芭蕉『柴門の辞』)
あなたも、自分の得意なことや大切な仕事に一筋に打ち込みたいと思ったことはありませんか。
歌麿もまた、絵を描くことだけに自分の命を繋いでいたのです。
版元・蔦屋重三郎とは、一体どんな人物だったのでしょうか。
蔦屋重三郎は、歌麿より3年ほど前の1750年に吉原に生まれたと言われています。
1774年から、「吉原細見」というガイドブックの出版・販売に関わるようになりました。
そこから、新しいビジネススタイルで江戸の出版界に頭角を表していったのです。
蔦重の仕事は単なる出版・販売にとどまりませんでした。
「吉原細見」を読み手目線に大胆にリニューアルしました。
出版物の序文を人気作家に書かせたりしました。
出版の枠を超え、まるで現在のプロデューサーのようだったのです。
そうして出版界に新風を巻き起こした蔦重は、次々とヒット作を飛ばしました。
1783年には日本橋にも出店し、出版界で一目置かれる存在となっていったのです。
そんな蔦重が、次代の絵師として目を付けたのが喜多川歌麿でした。
歌麿と蔦重の出会いは、あなたにとっても特別な他とは違うヒントを与えてくれます。
人との出会いや、新しい試みが、あなたの人生を大きく変えるきっかけになるからです。
>「機会というものは、いつも初めは、一つの危機として来るか、あるいは一つの負担として現れた」
(相馬愛蔵)
歌麿の名が人々に知られるようになったのは、1788年頃からです。
当時流行していた狂歌に、花鳥画を合わせた狂歌絵本の挿絵でした。
「画本虫撰」「汐干のつと」「百千鳥」といった作品です。
それらは、対象物を写実的に緻密に描いたものでした。
現在知られている”美人画の歌麿”とは全く違う作風でした。
けれども、歌麿の素晴らしい実力を見せつけるには十分な出来栄えだったのです。
狂歌本の挿絵で成功を収めた歌麿は、その後、蔦重と組んで次々と新しい美人画を発表しました。
その中でも江戸で大きな話題となったのが、「大首絵」と呼ばれる技法です。
人物の上半身にフォーカスして描いた浮世絵のことです。
元々は役者絵に使われた表現方法でした。
歌麿と蔦重は、それを大胆にも美人画に応用したのです。
何故そんなことをしたのか、分かりますか。
女性の顔を大きく描くことで、内面や性格まで描き出すためでした。
それまでは絵師の好みで描かれてきた女性像が、歌麿によって「実在する生きた女性」となったのです。
>「困難だからやるのだ。誰もやらないし、やれないから俺がやるのだ。そんな俺は阿呆かも知れないが、その阿呆がいなければ、世の中には新しいものは生まれないのだ」
(豊田喜一郎)
世の中に新しいものを生み出すには、誰もやらないことに挑む狂気が必要です。
歌麿と蔦重は、まさにその「阿呆」になって新しい美を創造したのです。
制限が生み出す驚くべきイノベーションとあなたの成長
あなたの日常生活でも、時間がない、お金がないといった制限がありませんか。
でも、悲観することはありません。
制約があるからこそ、人間は驚くべき改良や工夫を生み出せるのです。
歌麿の時代もそうでした。
大きく描かれた女性の顔や髪の生え際を細かく表現するため、彫師の技術も上がりました。
木版の技術が、大いに進歩していったのです。
しかし、時は寛政の改革です。
質素倹約に重きを置いた改革が始まり、娯楽の取締まりが厳しくなりました。
出版業界にも、様々な厳しい規制が課されたのです。
では、歌麿たちは諦めたでしょうか。
いいえ、全く諦めませんでした。
どんな時にも蔦重と歌麿コンビが目指していたのは、女性をより美しく見せることでした。
その強い思いによって、二人は幕府の規制に対抗しました。
次々と新しい美人画の可能性を切り開いていったのです。
その一つが、雲母(キラ)の背景を施した美人画です。
浮世絵を簡素化しなければいけないという幕府のお達しがありました。
そこで2人が考え出したのが、背景を描く代わりに雲母の粉を引いてきらきら光らせることでした。
このキラ引きが施された歌麿の美人画は、江戸の大ヒット商品となりました。
あなたも、この発想の転換に驚かされませんか。
ピンチをチャンスに変える力こそ、あなたが日常で活用できる一番の武器です。
背景の工夫以外にも、透かしたものを通して女性の美しさを引き出しました。
空摺(からずり)によって、女性の肌の柔らかさを表現したりもしました。
制約の中での試行錯誤から、信じられないような新しい表現方法を生み出したのです。
>「ほとんどの人が、成功とは手に入れるものだと考えています。でも本当のところ、成功とは与えることなのです」
(ヘンリー・フォード)
歌麿は、自分の才能を江戸の人々に楽しんでもらうために「与え」続けました。
だからこそ、今でも彼の名は輝いているのです。
歌麿は、実在する様々な女性の真の姿を描こうとしました。
吉原の遊女の一日を2時間毎に描いた12枚のシリーズ「青楼十二時」があります。
華やかな表の顔だけでなく、遊女たちがふと見せる素顔を描き出しました。
これは吉原に馴染みの深い蔦重と共に活躍する歌麿だからこそ、描くことのできた傑作です。
しかし、1791年に蔦屋から出版された複数の本が幕府によって摘発されます。
蔦重は、財産の半分を没収されてしまいました。
大変な打撃ですよね。
その後も蔦重は、幻の絵師・東洲斎写楽を売り出すなど起死回生を試みました。
しかし、1797年に病気で亡くなってしまいます。
相棒を失った歌麿でしたが、絵師として多くの美人画を描き続けました。
けれど1804年、禁制の画題を描いた浮世絵を出版したとして処罰されます。
手鎖50日の刑に処されてしまったのです。
それ以降、歌麿は病にかかり、2年後に失意のうちに亡くなりました。
ほぼ同じ時期に生まれ、同じような末路を辿った蔦屋重三郎と喜多川歌麿。
ですが、この2人の活躍によって、浮世絵美人画の歴史は大きく進化しました。
蔦重と歌麿の関係からわかるように、江戸の版元はプロデューサーでした。
出版を企画し、絵師を選び、彫師・摺師を取りまとめて出版する。
全工程に深くかかわっていたのです。
蔦屋重三郎無くしては、美人画の大家・喜多川歌麿は生まれませんでした。
蔦重と歌麿は、まさに浮世絵界における二人三脚の風雲児であり、革命家だったのです。
>「道の常なるは無為にして、しかも為さざるは無し。」
(老子)
自然の流れに逆らわず、しかしなすべきことを淡々となす。
歌麿の生き様は、私たちに執念と継続の大切さを教えてくれます。
諦めない執念が切り拓く人生の成功法則
あなたも、仕事や目標に向かって努力しているとき、途中で投げ出したくなることはありませんか。
「もう駄目だ」と思った瞬間からが、本当の勝負なのです。
トヨタの創業者である豊田佐吉をご存じでしょうか。
彼はまさに執念と忍耐の人でした。
周囲からは「変人」「狂人」「発明狂い」とまで扱われました。
佐吉はとても無口な人でした。
でも、彼の胸には熱い情熱がありました。
「発明してみんなの暮らしを楽にしたい」という純粋な想いです。
朝から晩まで毎日毎日、何かをこしらえては壊す。
造ってはまた造りなおす。
その繰り返しでした。
成功も失敗も終わりではありません。
重要なのは、続ける勇気なのです。
とにかく、自分が一番長く一生懸命にやる。
これは、チョーヤ梅酒の精神にも通じます。
「梅酒で成功しなければ人生を諦めろ」というほどの背水の陣の覚悟。
その情熱が、商品を一流へと押し上げるのです。
よいものを、伝えることが何より大事です。
世の中に伝わらなければ、存在しないのと同じになってしまうからです。
ソニーの創業者・盛田昭夫さんは、こう言いました。
>「そんなものがまだ生産されたこともなく、誰ひとりそれを見たこともないのに、どこかの一隅でこつこつと研究され、非常な苦心の末、製造された製品。その製品を商品としようとする場合には、その製品を手に入れたいという欲求を、人々の間に喚起させなければ、いかに優れた『製品』であっても『商品』にはなり得ない」
どんなに素晴らしい歌麿の絵であっても、蔦重という伝える存在がいなければ世に出ませんでした。
あなたの素晴らしい魅力や努力も、同じではないでしょうか。
発信し、誰かに伝える工夫をしなければ、周囲には伝わりません。
>「我々の最大の弱点は諦めることにある。成功するための最も確実な方法は、常にもう一度だけ試みることだ」
(トーマス・エジソン)
>「多くの失敗者は、諦めたとき自分がどれほど成功に近かったかに気づいていない」
(トーマス・エジソン)
>「私の成功の秘訣は他の人が諦めた後も続けることだ」
(トーマス・エジソン)
エジソンの言葉は、私たちの胸に深く刺さりますね。
あなたが今、何かで悩んでいるなら、あと一歩だけ試してみませんか。
自動車の歴史を作った本田宗一郎さん、そして彼を支えた藤沢武夫さん。
トヨタの販売の神様と呼ばれた神谷正太郎さん、中興の祖である石田退三さん。
彼らもまた、伝えることと継続することに命を懸けました。
ホンダのスーパーカブを売りまくった藤沢武夫さん。
トヨタのカローラを売りまくった神谷正太郎さん。
彼らの泥臭い情熱があったからこそ、技術が世界へと羽ばたいたのです。
アップルの創業者スティーブ・ジョブズも、こう語っています。
>「クオリティは永遠に記憶される。価格は忘れられる。」
どんな優秀なマーケティングであっても、駄作をヒットさせることはできません。
歌麿の絵が今も世界中で愛されているのは、本物のクオリティがあったからです。
価格や一時の流行を超えて、クオリティこそが永遠に残るのです。
あなたも、自分の人生という作品のクオリティを高めてみませんか。
本物の芸術作品をコレクションし、部屋に飾る趣味を持つこと。
それは、あなたの生活のクオリティを格段に引き上げてくれます。
歌麿の浮世絵や、本物の絵画を収集する趣味は、単なる道楽ではありません。
時を超えて生き続けるアーティストの情熱と対話する時間なのです。
その時間が、あなたの心を豊かにし、日々の疲れや心配事を綺麗に吹き飛ばしてくれます。
素晴らしき伝達者たちの存在とあなたへの献身
良いものには、必ずそれを伝える「伝達者」が必要です。
どれほど素晴らしいものでも、伝える人がいなければ世界に広まりません。
ここで、歴史上の素晴らしい女性のお話をさせてください。
画家ヴィンセント・ファン・ゴッホの弟であるテオの妻、ヨー(ヨハンナ・ファン・ゴッホ=ボンゲル)のお話です。
画家のゴッホは生前、ほとんど絵が売れませんでした。
彼を経済的にも精神的にも支え続けたのが、弟のテオでした。
しかし、ゴッホが亡くなったわずか半年後、弟のテオも後を追うように世を去ってしまいます。
残された妻のヨーは、幼い子供を抱えて途方に暮れました。
普通なら、売れもしない大量の絵画など処分してしまうかもしれません。
しかし、ヨーは違いました。
ヨーは読書家で、非常に聡明な女性でした。
彼女は、夫テオと義兄ヴィンセントの間で交わされた膨大な手紙を読み込みました。
そして、ゴッホの絵画と思想を心から理解したのです。
「この素晴らしい画家の作品を、絶対に埋もれさせてはいけない」
彼女は心に固く誓いました。
ヨーはこう言っています。
>「子供のほかに、テオは私にもう一つの使命を残した──フィンセントの作品を多くの人に見てもらい、真価を認めてもらうこと」
ヨーは人生を賭けて、ゴッホの作品と手紙を整理し、展覧会を開き、世界に発信し続けました。
彼女の献身があったからこそ、今私たちはゴッホの素晴らしい絵鑑賞できるのです。
もしヨーが手紙や作品を捨てていたら、ゴッホという天才は歴史の闇に消えていたでしょう。
これと同じ構造が、キリスト教の歴史にも見られます。
イエス・キリストの死後、使徒パウロが各地を巡り、手紙を書き、情熱的に教えを伝え続けました。
>「私は、私を強めてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」
(使徒パウロ『フィリピの信徒への手紙』4章13節)
パウロという最高の伝達者がいたからこそ、キリストの福音は世界中に広まりました。
そして後に、ジャン・カルヴァンなどの宗教改革者たちがその思想を現代へ繋いだのです。
>「神の御言葉があるところには、どこであっても神の教会が存在する。」
(ジャン・カルヴァン)
ヨハンナ・ファン・ゴッホも、使徒パウロも、世界最高のセールスマンでした。
スティーブ・ジョブズや盛田昭夫、藤沢武夫や神谷正太郎と同じです。
良いものを、熱意を持って伝えること。
それが世界を変えるのです。
あなたにとってのメリットは何でしょうか。
それは、あなた自身もまた「自分の人生の素晴らしさを伝える伝達者」になれるということです。
歌麿のように、ゴッホのように、自分の想いを形にして生きていいのです。
最後にあなたへ伝えたい命のメッセージ
ここまで読んでくださったあなたへ、心を込めてお伝えしたいことがあります。
人生には、どうしても避けられない暗闇や苦難があります。
しかし、昔からこう言われています。
>「生中に生あらず、死中に生あり」
窮地に追い込まれたときこそ、本当の命の輝きが生まれるのです。
マクドナルドを世界的にしたレイ・クロックも言いました。
>「勇気を持って、誰よりも先に、人と違ったことをしなさい」
>「私は一夜にして成功を収めたと思われているが、その一夜というのは三十年だ。思えば長い長い夜だった」
30年という長い夜を耐え抜いたからこそ、大きな光が射したのです。
あなたの今の苦労も、決して無駄ではありません。
すべての積み重ねが、あなたという人間を美しく磨き上げています。
一刻も早い解決を焦る必要はありません。
急を要する問題に見えても、じっくりと自分の人生に向き合えば、必ずうまくいくのです。
わたし、高見沢耳は、あなたに特別なメッセージを贈り続けます。
あなたという存在が、どれほど大切で、どれほど価値があるかを知ってほしいからです。
どうぞ、自分を諦めないでください。
あなたには、素晴らしい人生を生きる権利と力があるのですから。
追伸
追伸です。
最後に、私、画家・高見沢耳(たかみざわ みみ)について少しだけお話しさせてくださいね。
私はキャンバスと筆を使いません。
デジタルで制作し、ジクレー版画技法を使って高級な版画用紙に印刷しています。
テーマは、あなたの目・わたしの目、キリスト教、永遠、心理、真理、視線、歴史、孤独、孤立、苦難、復活、解放です。
画家は、魂を救う医者だと信じています。
芸術家の仕事は、身銭を切っての精一杯のサービスであり、あなたへの奉仕なのです。
芸術家は、目の前にいるあなたに全てを捧げます。
どうか見捨てないで、わたしのことを笑ってください。
笑われて強くなる。
必死のサービスです。
芸術家の仕事は、精一杯の道化なのです。
私は忍耐の男です、不屈の男です、諦めません。
ヴィンセント・ファン・ゴッホの生き様を知り、画家になることを決意しました。
「高見沢耳」の「耳」は、あの有名なゴッホの耳切り事件にあやかったものです。
>「私は絵の中で、音楽のように何か心慰めるものを表現したい」
このゴッホの名言は、本当に素晴らしいと思います。
何かを表現しているのに、誰の心も感激させられない、慰めることのできない作品には価値がありません。
過去の傑作のすべてが、才能だけでなく、数十年にわたる試行錯誤から生まれたことを私は知っています。
私は自分の作品に「目」を描き続けています。
それは、目の前にいるあなたを感じ続けたいからです。
あなたを知りたいのです。
私は、CoCo壱番屋の創業者である宗次徳二(むねつぐ とくじ)さんを深く尊敬しています。
よそ見をせず、仕事に全力を尽くす姿です。
宗次さんは現役時代、趣味も持たず、友人もつくらず、飲み屋にも行きませんでした。
年間5640時間も働き、お客様に全てを捧げたのです。
宗次さんは実の両親の顔を知りません。
孤児院で育ち、極貧の中で雑草を食べて餓えをしのいだ経験をお持ちです。
そんな波乱万丈の人生から、お客様第一主義を貫き、大成功を収めました。
宗次さんはこう言います。
>「すごく孤独な人生でした。だから少しでも他人から関心を持ってもらいたかった。興味を持ってもらいたかったんです。それが私の原点になっています。だから、商売を始めて、お金を儲けるというよりも、人に喜んでもらいたかったんです。少しでも自分がいて良かったと言ってもらいたかった」
私も同じ気持ちです。
あなたに喜んでもらいたい。
あなたに「高見沢耳がいて良かった」と言ってもらいたいのです。
現場主義で、毎日集中してやる。
即断、即決、即実行。
考えるより、まずやってみることです。
人生は生まれ育ちで決まるものではありません。
勤勉さと忍耐力と継続力によって決まるのです。
どんなに苦しくても、簡単に諦めないでくださいね。
人生には光もあり、闇もあります。
そんなあなたの人生に寄り添うのが、高見沢耳の芸術です。一生涯のサポートです。
なぜなら、誰もが価値のある人生を生きる権利があるからです。
最後に、私の尊敬するヘンリー・フォードの言葉をあなたに贈ります。
>「成功の秘訣は、他人の立場に立ち、自分の立場と同時に他人の立場から物事を見ることができる能力である。」
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
あなたの人生が、素晴らしい光で満たされることを心から祈っております。