ダヴィッドという画家

ああ、もう、やり切れない。美というものは、どうしてこうも人を残酷にするのでしょう。皆さんは、ジャック=ルイ・ダヴィッドという男をご存じか。名前だけ聞けば、いかにも立派な、どこかの貴族の家令のような響きですが、その実体は、画布の前に座った冷徹な独裁者、あるいは色彩の檻に閉じ込められた美しき亡霊といった風情であります。

フランス革命なんていう、世の中がひっくり返って、昨日までの御馳走が今日からは泥水に変わるような恐ろしい時代に、彼は筆一本で立ち向かった。いや、立ち向かったというよりは、その激流のいちばん高い波頭に飛び乗って、「さあ、俺を見ろ、俺の描く正義を見ろ」と叫んでいたような男です。彼の描く絵ときたら、もう、溜息が出るほどに完璧で、そして、少しばかり鼻持ちならない。

たとえば、あの有名な「ナポレオンの戴冠式」をご覧なさい。あれは絵ではありません。巨大な、動かぬ芝居です。皇帝ナポレオンが、いかにも自分一人で世界の重みを背負っているような顔をして、冠を掲げている。その背後で、ダヴィッドは、まるで神様にでもなったつもりで、歴史の瞬間をピンで留めてしまった。彼は真実を写したのではない。彼が望んだ「もっとも美しい真実」を捏造したのです。嘘だ、と言いたいのではありません。ただ、その嘘が、あまりにも眩しくて、あまりにも正しすぎるから、私たちは黙り込むしかない。

彼は「新古典主義」という、なんとも堅苦しい看板を背負っていました。古代ギリシャだのローマだの、あんなに筋肉がむき出しで、筋の通った世界を、血の通った人間に押し付けようとした。でも、そこが面白い。ダヴィッドという男は、理屈では冷徹な合理主義者を装いながら、その実、誰よりも熱い、火傷しそうなほどの野心と情熱を、あの滑らかな絵肌の裏側に隠していたのです。

私がもっとも戦慄を覚えるのは、マラーの死を描いたあの絵です。暗殺された革命家が、風呂桶の中で事切れている。普通なら、血生臭くて正視できない惨状のはずなのに、ダヴィッドの魔法にかかると、それはまるで聖者の殉教のように、神聖な静寂に包まれる。彼は、死体の中にさえ、完璧なプロポーションを見出そうとした。なんという強欲、なんという美への執着。

人間、あまりに正論ばかり吐いていると、いつか自分の吐いた言葉の重みで首が締まるものですが、ダヴィッドは違いました。ナポレオンが失脚すれば、自分もまた追放される。それでも彼は、ベルギーの地で死ぬまで、冷たいまでの完璧主義を捨てなかった。晩年の彼は、かつての政治的な熱狂を失い、ただひたすらに、滑らかで、陶器のような肌を持つ神話の住人たちを描き続けた。それは敗北だったのでしょうか。いいえ、私には、彼がようやく政治という世俗の泥沼から抜け出して、自分だけの、誰にも汚されない美の王国へ亡命したように思えてならないのです。

私たちは、よく「ありのままの自分」なんて言葉を口にします。でも、ダヴィッドの絵を前にすると、そんな甘っちょろい言葉は吹き飛んでしまう。「ありのまま」なんてものは、ただの怠慢ではないか。美しくあろうとすること、自分を律して、高潔な理想の型に自分を流し込もうとすること。その、ほとんど狂気に近い努力こそが、芸術というものの正体ではないか。

ダヴィッドは、私たちに教えてくれます。人生は、不格好で、泥にまみれて、整理のつかないものだ。だからこそ、せめて心の中には、一枚の冷徹な、そして最高に美しい絵画を飾っておかなければならないのだと。たとえそれが、時代の波に洗われて、最後には自分一人だけの孤独な空想になったとしても、その「美しさ」への意地こそが、人間を動物から隔てている、最後の一線なのだと。

ああ、それにしても、彼の描く布の質感はどうでしょう。あの冷たいサテンの輝き、重厚なベルベットの陰影。あんなものを見せつけられたら、私の書く頼りない言葉の羅列なんて、まるで雨に濡れた古新聞のように色あせて見えてしまう。悔しいけれど、脱帽です。ダヴィッドという男は、歴史を描いたのではありません。歴史そのものを、自分の好みの色彩で塗り替えてしまった。そんな贅沢な悪戯を許されたのは、後にも先にも、この頑固なフランス人一人きりかもしれません。