
ああ、もう、たまらない。情熱というものは、どうしてこうも、人の心を引き摺り回し、最後には泥まみれにして平然としているものなのでしょう。皆様、ウジェーヌ・ドラクロワという男をご存じですか。あの、フランスの大きな、重たい、熱病にかかったような絵を描くお方です。
世間ではよく「ロマン主義の旗手」なんて、まるで運動会の花形走者のような呼び方をいたしますが、あんなもの、嘘です。彼はただ、心の中に抑えきれない猛獣を飼っていただけなのです。しかも、その猛獣は、香水で身体を洗い、シルクのシャツを着たがり、それでいて夜になれば暗闇で目を光らせるという、始末に負えない代物だったのですから。
ドラクロワの代表作といえば、あの『民衆を導く自由の女神』でしょう。胸をはだけた婦人が三色旗を掲げ、死屍累々たる瓦礫の上を、ずんずんと突き進む。あれを眺めていると、こちらの心臓までドクドクと不規則な音を立て始め、なんだか訳もなく「よし、僕も何かしよう」などと、柄にもない決意をさせられそうになります。けれど、ちょっと待ってください。あの絵を描いた時のドラクロワは、決して「革命万歳」と叫んで街頭に飛び出したわけではないのです。彼は、アトリエに閉じこもり、冷めた紅茶を啜りながら、ただひたすらに、己の内側にある「色」と格闘していた。彼は言いました。「私が祖国のために戦わなかったとしても、せめて祖国のために絵を描くことはできる」と。
なんという、甘美な言い訳でしょう。私はこの一言を聞いただけで、彼と握手したくてたまらなくなります。彼は、現実の騒乱よりも、キャンバスの上の青と赤の衝突の方が、ずっと恐ろしい戦いであることを知っていたのです。
彼は一生、独身を貫きました。家庭という平穏な港を、彼はあえて拒んだ。なぜか。それは彼にとって、色彩が、光が、影が、一人の女よりもずっと、わがままで、執念深く、愛すべき存在だったからに違いありません。彼は日記に、それはもう細かく、その日の天気や、出会った人の悪口や、あるいは絵具の混ぜ合わせ方について、執拗に書き残しました。
「色彩は、音楽と同じように、それ自身で感情を伝えるものだ」と彼は説きました。形がどうの、デッサンがどうのという理屈よりも先に、目に飛び込んでくる「赤」が、僕たちの魂を震わせる。それは理屈ではありません。恋と同じです。理由があって好きになるのは、それはまだ本当の恋ではありません。どうしようもなく、その色に、その光に、射抜かれてしまう。ドラクロワは、その一瞬の衝撃を永遠に閉じ込めるために、自分の命を削り、絵筆を剣のように振るったのです。
彼がモロッコへ旅に出たときの話も、実に興味深い。彼は北アフリカの強烈な太陽の下で、今まで自分が信じていた「影」が、実は単なる黒ではなく、深い青や紫で満たされていることを発見しました。彼は狂喜乱舞したことでしょう。私たちが「悲しい」と思ったときに、ただ「悲しい」という言葉だけを使うのは、彼に言わせれば無粋なのです。悲しみの中には、沈んだ群青があり、微かな期待の黄色が混じり、そして煮え切らない灰色が渦巻いている。それをすべて描ききってこそ、初めて人間を描いたことになる。
彼は、古典派のアングルのように、一点の曇りもない完璧な線を引くことを良しとしませんでした。あんなものは死んだ線だ、と彼は笑ったかもしれません。彼の描く線は、常に震え、のたうち回り、今にもキャンバスから逃げ出そうとしています。不完全であること、震えていること、それこそが生きている証拠なのだと、彼の絵は私たちに教えてくれるのです。
ですから、皆様も、もし人生に迷い、自分の心が千々に乱れて、どうしようもなくなった時は、ドラクロワの絵を一枚、じっと眺めてごらんなさい。そこには、整理整頓された正義などありません。あるのは、混沌と、激情と、そして、それらを無理やり美しさに変えてしまおうとする、男の意地だけです。
「才能とは、忍耐の集積である」という言葉がありますが、彼の場合は「才能とは、情熱を制御しようとする絶望的な格闘」だったのではないでしょうか。彼は死ぬ間際まで、自分の色が足りないことを嘆いていたといいます。あれほど豪華絢爛な世界を築き上げながら、それでもまだ、本当の「光」には届かないと、彼はもがいていた。
ああ、なんと救いのある話ではありませんか。あの巨匠でさえ、最後まで満足できずに死んでいったのです。それならば、私たちのような端くれが、日々、失敗し、恥をかき、みっともなくあがいているのも、当然のことのように思えてきます。
ドラクロワの絵を、ただの古い美術品だと思わないでください。あれは、かつてこの地上に、これほどまでに激しく、これほどまでに繊細に、色に恋をした男がいたという、血の滲むような手紙なのです。私たちは、その手紙を読み、ほんの少しだけ勇気をもらって、また明日から、自分の不細工な人生というキャンバスに、一筆、妙な色を置いてみればいいのです。それで十分ではありませんか。