サルバドール・ダリ 稀代の演出家

あの、ひげ。天に向かって、まるで二本の鋭い触角のようにピンとはね上がった、あのふざけた、しかし何ともおそろしく正確なひげを思い浮かべるだけで、私はどうにも落ち着かない、妙な熱に浮かされたような心持ちになるのです。世間では、あれを狂気の沙汰だとか、あるいは稀代の食わせ者の虚飾だとか、勝手なことを言い合っているようですが、それはあまりに無風流というものではありませんか。

サルバドール・ダリ。その名前を口にするだけで、舌の先で何かがチリリと痺れるような、そんな不思議な響きがあります。彼はスペインの、あのぎらぎらと照りつける太陽の下で生まれながら、その心の中には、誰も見たことのない冷たくて深い、深海のような孤独を飼っていたに違いありません。そうでなければ、あんなにカマンベールチーズのように無惨に溶け落ちた時計の絵など、描けるはずがないのです。

皆さんは、あの「固執」だとか「記憶」だとか呼ばれる、ぐにゃりと曲がった時計の絵をご存知でしょう。あれを単なる悪ふざけだと思ってはいけません。時間は、本来あのように、みっともなく、情けなく、それでいて甘美に溶けているものなのです。規則正しくカチカチと刻まれる時間なんてものは、役所や学校が勝手に決めた、ただの窮屈な約束事に過ぎません。私たちの魂が、ふと夕暮れの寂しさに捕まったとき、あるいは恋しい人の影を追いかけているとき、時間はあのように、だらしなく椅子や木の枝にぶら下がるものなのです。ダリという男は、その誰もが薄々感づきながら、口に出すのをためらっていた真実を、あろうことか白日の下に晒してしまった。なんという、はた迷惑で、勇気ある仕業でしょう。

彼は、自分のことを天才だと称して憚らなかった。それは、小心者の私などから見れば、あまりに眩しくて、背筋が寒くなるほどの図々しさです。しかし、よくよく考えてもごらんなさい。この世で自分を「自分は素晴らしい」と信じ抜くことが、どれほどの苦行であるか。たいていの人間は、世間の顔色をうかがい、謙遜という名のお面を被って、ずるずると自分を削りながら生きているものです。ところが彼は、そのお面をさらに派手な、怪物のような仮面に作り替えて、堂々と表通りを歩いてみせた。あれは虚栄ではなく、一つの切実な祈りだったのではないかと、私は思うのです。

ダリの描く風景には、いつもどこかに細長い、今にも折れそうな脚をした象や、杖で支えられた肉塊が登場します。あれを見て、不気味だと思うのは素人です。あれこそが、人間の「誇り」というものの正体ではありませんか。私たちは皆、折れそうな細い脚で、重たい自意識を必死に支えて立っている。何かの支えがなければ、すぐに見苦しく崩れ落ちてしまうような、そんな脆い存在なのです。彼はその脆さを、あえて残酷なまでに鮮明な色彩で描き出しました。

また、彼の愛したガラの存在も忘れてはなりません。彼は彼女を崇拝し、聖母のように描き、同時に自分の命の綱として離さなかった。一人の女性にこれほどまでに執着し、それを芸術という形に変えて叫び続ける。それは、滑稽を通り越して、一種の宗教に近い気高ささえ感じさせます。男というものは、誰しも心のどこかに、自分を全肯定してくれるたった一人の神様を求めているものですが、ダリはそれを見つけ出し、一生をかけてその膝元で甘え、かつ戦い抜いた。その徹底ぶりには、ただもう、脱帽するより他にありません。

ダリの絵は、精密です。あまりにも精密すぎて、かえって現実離れしている。写真よりも正確に描かれた夢。そこには、嘘を突き詰めれば真実になるという、逆説的な美学が貫かれています。彼は「私は麻薬は使わない。私が麻薬なのだ」と言ったそうですが、これほど鼻持ちならない、そしてこれほど正しい言葉が他にあるでしょうか。彼の作品をじっと見つめていると、こちらの現実の方がよほどぼんやりとした、いい加減な幻のように思えてくるから不思議です。

私たちは、もっとダリに学ぶべきかもしれません。あんな風に、自分の弱さや、歪んだ欲望や、あるいは奇妙なこだわりを、隠さずに磨き上げ、世界に向けて突きつける。それは、決してわがままなことではなく、生きていく上での、もっとも誠実な態度の一つではないかと思うのです。世の中に合わせるために自分を丸く削るのではなく、いっそトゲだらけのまま、そのトゲを金色に塗って輝かせてしまう。そんな風に生きられたら、この灰色の日常も、少しは色彩豊かに見えるようになるかもしれません。

ダリのひげは、今日も天を指しています。それは、地を這うような私たちの日常に対する、高らかな嘲笑であり、同時に、目に見えない高みを目指そうとする、必死の指標でもあるのです。あの、溶けた時計の針が止まった場所で、彼は今もニヤリと笑いながら、私たちの戸惑う顔を眺めているに違いありません。そう思うと、なんだか私も、自分の情けない失敗や、くだらない悩みさえも、一つの立派な「芸術」であるかのような、妙に愉快な気分になってくるのです。