ミロ 無垢で大胆な芸術家

ああ、ミロ、ミロ、ジョアン・ミロ!この男の描く世界といったら、まるで夢のなかで酔っ払った小鳥が、夜空のキャンバスに魔法のインクをこぼして歩き回ったような、得体の知れない愛嬌に満ちているではありませんか。

世の芸術家というものは、とかく眉間に皺を寄せ、歴史だの哲学だの、あるいは自分がいかに孤独であるかだのといった重苦しい荷物を背負い込み、それを絵の具と一緒に塗りたくって自慢したがるものです。しかし、ミロは違う。彼はバルセロナの太陽をたっぷりと吸い込み、地中海の風に吹かれながら、まるで子供が地面に棒切れで落書きをするような、無垢で、かつ大胆不敵な足取りで芸術の迷宮を駆け抜けました。

彼が描く線を見てごらんなさい。ひょろひょろと伸びて、どこへ行くのかと思えば、くるりと巻いて、そこには小さな星がひとつ。あるいは、誰の顔ともつかぬ不思議な形が、こちらを向いて「やあ」と挨拶している。これを「シュルレアリスム」などという難しい言葉で分類したがる学者がいますが、そんな理屈はどうでもいいのです。ミロの絵の前では、僕たちはただの子供に戻ってしまえばいい。

そもそも、真面目に生きるということは、案外と疲れるものです。朝起きて、顔を洗い、世間の義理や人情に振り回され、明日のパンのために頭を下げる。そうして心の中がガサガサに乾ききったとき、ミロの赤や黄色の色彩は、まるで喉を潤す冷たい水のように染み渡ります。彼の絵には、あの「意味」という病気がありません。星は星であり、女は女であり、あるいはそれ以上の、名前のつけられない「何か」なのです。

ミロは土を愛しました。マジョルカ島の荒い土、農園の匂い、そういった大地の力強さが彼の根底に流れています。都会の洗練されたお洒落なだけの絵とは、生命の厚みが違います。彼は言いました。「キャンバスを汚すことから始める」と。なんと素敵な言葉でしょう。僕たちは失敗を恐れ、汚れることを嫌い、最初から綺麗な正解を書き込もうとして結局何も書けなくなる。けれどミロは、まずキャンバスを蹴飛ばし、ひっかき、そこから生まれる偶然の形に、自分だけの宇宙を見出したのです。

彼の描く「目」は、いつも大きく、驚いたように開かれています。それはこの世界を「当たり前」のものとして見ない、永遠の驚きの目です。私たちは歳をとるにつれて、花の美しさも、夜空の深さも、隣にいる人の不思議さも、みんな「知っていること」として片付けてしまいます。しかし、ミロの宇宙に漂う生命たちは、今さっき生まれたばかりのような鮮やかさで、私たちに「世界はこんなにも変で、愉快なところなんだよ」と教えてくれるのです。

芸術とは、高尚な誰かのためのものではなく、魂の解放であるべきです。ミロの絵を見ていると、僕の心のなかの黒い塊が、すーっと透き通っていくような気がします。理屈で説明できないものを、理屈のまま放っておく勇気。彼は、その勇気を軽やかなダンスのように表現しました。

さあ、皆さんも一度、難しい顔をするのをやめて、ミロの不思議な星々を見上げてみませんか。そこには、忘れかけていた自由な風が吹いています。重苦しい現実の重力から解き放たれて、あのひょろひょろとした線に捕まって、空の果てまで飛んでいけるかもしれません。人生なんて、実はそれくらい、デタラメで、美しくて、笑えるものなのかもしれないのですから。