ああ、全く、美徳というやつは、どうしてこうも退屈な服を着て歩きたがるのでしょう。お世辞にも趣味が良いとは言えません。皆さん、どうか聞いてください。これは、ある「幸福な王子」の末路よりもずっと、皮肉で、それでいて身につまされる、とある男の告白であります。
かつてロンドンに、それは見事な銀の食器と、それ以上に磨き上げられた冷笑を武器にする、一人の洒落者がおりました。彼は言いました。「真実とは、めったに純粋ではなく、けっして単純ではない」と。ああ、その通り。僕のこれまでの生活も、およそ純粋とは程遠い、複雑怪奇な刺繍のようなものでした。朝にシャンパンを飲み、昼に絶望を齧り、夜には道徳という名の古臭い外套を脱ぎ捨てて、ベルベットの闇に紛れる。これこそが人生だ、これ以外に何があるのかと、僕は鏡の中の自分にウィンクを送っていたのです。
しかし、世間という名の巨大な怪物は、案外、僕たちの審美眼を許してはくれません。僕がどれほど完璧なエピグラムを吐こうとも、連中は「それは腹の足しになるのか」とか、「それで誰を救えるのか」といった、実におぞましい、実利的な質問を投げかけてくる。失礼極まりない。美しさは、ただ美しくあるだけで、全ての罪を赦されるべきではありませんか。
ある日、僕は一冊の奇妙な小説を手にしました。そこには、老いることのない美しい青年が、自分の代わりに肖像画に年を取らせ、醜悪な魂の傷跡をなすりつけるという話が書いてありました。僕は膝を打ちました。これだ、これこそが僕たちの理想だ! 自分の顔は常に朝露のように清らかで、その裏で魂はどれほど腐臭を放っても構わない。僕はその物語を読み耽り、やがて気づいたのです。僕自身が、その肖像画そのものではないか、と。
皆さんは、幸福というものを履き違えておいでだ。幸福とは、決して清らかな心で野原を駆けることではありません。それは、自分の醜さを誰にも悟られず、見事なサテンのネクタイで隠し通せた瞬間にこそ宿るのです。しかし、悲劇というものは、常に最高のタイミングで舞台に現れます。僕のネクタイが少しだけ歪んだその瞬間、隣りにいた婦人が「あら、あなた、その下には何があるの?」と無邪気に問いかけた。僕は凍りつきました。そこには、僕が長年隠し続けてきた、誰にも言えないほど陳腐で、救いようのない「善意」という名の、みすどおしい痣があったからです。
ああ、恥ずかしい。冷笑家として生きてきた僕にとって、内側にひっそりと「優しさ」なんていう湿っぽいものを飼っていた事実は、どんなスキャンダルよりも耐え難い屈辱でした。僕は慌てて皮肉を塗り込み、冷酷な言葉を重ねてその痣を隠そうとしましたが、一度見えてしまったものは消えません。
結局のところ、人生における最大の「ためになる話」とは、こういうことでしょう。人間、どれほど気取ってみても、どこかに必ず「人間らしさ」という致命的な欠陥を持って生まれてくる。そして、それを隠そうとすればするほど、僕たちはオスカーが愛した喜劇の登場人物のように、滑稽に踊らされることになるのです。
美しさは芸術に、真実は牢獄に、そして愛は、まあ、せいぜいタバコの煙の中にでもあれば十分です。僕は今、誰もいない部屋で、たった一輪の向日葵を眺めながら、かつて自分が否定したあらゆる道徳的な格言を、美しいレタリングで紙に書き写しています。それが僕の新しい「悪徳」なのです。どうです、少しは面白がっていただけましたか。僕の魂は今、かつてないほど美しく、そして救いようもなく、汚れています。