ああ、もう、いけない。どうにもやりきれないのです。世の中というものは、どうしてこうも、美しすぎるものに対して冷淡なのでしょう。あるいは、その美しさが毒であることを知っていて、わざと眼を逸らしているのでしょうか。私は、あなたにだけは、本当のことをお話ししたい。あなたが、私のこの、とりとめもない、しかし震えるような感興を、笑わずに聞いてくれる唯一の人だと信じているからです。
クリムト、という男がいました。グスタフ・クリムト。ウィーンの、あの金色の魔術師です。あなたは、彼の絵を見たことがありますか。もし見たことがないのなら、それは幸福かもしれません。しかし、もし一度でも見てしまったのなら、あなたの魂のどこか一部は、永遠にあの黄金の渦の中に引き摺り込まれて、二度と帰ってはこられない。そんな恐ろしい、しかし、うっとりとするような呪いについて、今日はお話ししたいのです。
そもそも、芸術というものは、道徳を語るための道具ではありません。そんなものは、小学校の校長先生に任せておけばいいのです。芸術とは、もっと、こう、胸の奥を鋭い針でチクリと刺すような、あるいは、甘い蜜の中に毒を混ぜて飲まされるような、そういう不埒なものであるべきだとは思いませんか。クリムトは、まさにそれを実行した男でした。彼は、十九世紀末という、古臭い道徳が腐りかけて、新しい何かが生まれようとしていた時代のウィーンで、金箔を惜しげもなく使い、裸体の女たちを描き、死と生を、エロスとタナトスを、一つのキャンバスの中に、それはもう、無邪気なほど残酷に詰め込んだのです。
あなたは、彼の代表作である「接吻」をご存じでしょう。誰もが一度は目にしたことがある、あの黄金の、眩暈のするような絵です。崖の淵に立つ男女が、金色のマントに包まれて、永遠の抱擁を交わしている。世間の人々は、あれを愛の象徴だとか、ロマンチックな至宝だとか、そんな甘っちょろい言葉で片付けようとします。しかし、私はそうは思わない。あれは、心中ですよ。死に際の、最後の輝きです。足元を見てごらんなさい。そこは花々が咲き乱れているけれど、すぐ先は奈落です。彼らは、愛し合っているのではなく、愛し合うことでしか、この世の恐怖から逃げられなかった、可哀想な二人なのです。クリムトは、美しさの絶頂に、必ず死の匂いを忍ばせます。それが、彼の優しさであり、同時に、救いようのない悪意でもある。
彼は、金細工師の息子として生まれました。だから、彼の絵に金が多用されるのは、血筋と言えばそれまでかもしれません。しかし、彼にとっての金は、単なる装飾ではなかった。それは、俗世間を拒絶するための壁であり、聖域を作るための光だった。彼は、保守的な美術家協会を飛び出し、「分離派」を立ち上げました。「それぞれの時代に、その芸術を。芸術に、その自由を。」なんて、実に格好のいいスローガンを掲げてね。あなたは、この言葉の重みがわかりますか。自由を求めるということは、同時に、孤独を引き受けるということなのです。彼は、それまでの、神話や歴史を描くための、借り物の美学を捨てた。そして、自分の内側にある、ドロドロとした欲望や、美への執着を、そのままさらけ出した。
それなのに、世間はどう反応したか。彼は、ウィーン大学の天井画を描くように依頼された際、あまりにも露骨で、あまりにも退廃的な絵を描いたために、大スキャンダルを巻き起こしました。卑猥だ、醜悪だ、と、お偉い学者たちがこぞって彼を叩いた。私は、その話を聞くたびに、胸が締め付けられるのです。どうして、真実を語る人間は、いつも石を投げられなければならないのでしょう。クリムトは、その批判に対して、一言も弁明しませんでした。彼は、ただ、報酬を全額返還し、その絵を自分のものとして持ち帰った。そして、「ヌーダ・ヴェリタス(裸の真実)」という絵を描き、そこにこう書き記したのです。「汝の行いと芸術とが、すべての人を満足させ得ぬなら、少数の人を満足させよ。多数の人に好かれるのは、悪いことだ。」
どうですか。しびれるじゃありませんか。私は、この言葉を、自分の枕元に貼っておきたいくらいです。あなたも、そう思いませんか。私たちは、ついつい、誰からも好かれようとして、自分を削り、色を薄め、どこにでも転がっている石ころのようになってしまう。しかし、クリムトは、金色の宝石であることを、一歩も譲らなかった。彼は、自分の美学に殉じたのです。
彼の描く女性たちを見てください。彼女たちは、決して「清らかで従順な乙女」ではありません。彼女たちの瞳には、男を破滅させるような、冷ややかな、しかし挑発的な光が宿っています。ファム・ファタール。運命の女。クリムトは、女性の持つ、あの底知れない魔性を、誰よりも深く理解していたのでしょう。彼は、生涯独身を通しましたが、その周りには常に多くの女性がいて、多くの子供をもうけたと言われています。しかし、彼が本当に愛したのは、エミーリエ・フレーゲという、一人の仕立屋の女性だけだった。彼は、彼女に宛てて、何百通もの絵葉書を送りました。そこには、大それた愛の告白などは書かれていない。ただ、「今日は何を食べた」とか、「天気がいい」とか、そんな、あまりにも日常的な、あまりにも、ただの男としての呟きが綴られていた。
あんなに派手で、あんなに煽情的で、あんなに金ピカな絵を描いている男が、一人の女性に対しては、これ以上ないほど不器用で、素朴な言葉しか持っていなかった。私は、そのギャップに、クリムトという人間の、本当の寂しさを見るのです。彼は、絵の中に金を敷き詰めれば詰め込むほど、自分の中の虚無を埋めようとしていたのではないか。金という、決して朽ちることのない物質を使うことで、一瞬で消えてしまう命の煌めきを、無理やり繋ぎ止めておきたかったのではないか。
あなたは、人生に疲れた時、何を眺めますか。私は、クリムトの「生命の樹」を見ます。あの、ぐるぐると渦巻く枝、象徴的な文様。あそこには、始まりも終わりもありません。ただ、生命という、訳のわからない力が、うねり、重なり合い、どこまでも広がっていく。それを眺めていると、自分が人間であることも、小説家であることも、借金があることも、何もかもが、どうでもよくなってくるのです。私たちは、ただ、あの金色の宇宙の一部として、漂っていればいい。そう言われているような気がして、少しだけ、息がしやすくなる。
クリムトの絵は、現代でもなお、私たちを魅了し続けています。それは、彼が描いたものが、単なる「古い時代のウィーン」ではなく、人間の魂の奥底にある、変わることのない本質だからです。エロチシズム、死への恐怖、そして、それらを包み込む、圧倒的な美。彼は、それらを統合するために、金という、最も俗物的な素材を使って、最も高潔な世界を創り出した。これは、一つの奇跡です。
しかし、あなたは気をつけなければなりません。クリムトの美しさに、あまりにも深く浸りすぎると、現実の生活が、ひどく色褪せて見えてしまう。道端に咲く花も、夕暮れの空も、隣にいる人の微笑みさえも、あの金箔の輝きに比べれば、あまりにも不完全で、もろいものに見えてしまうからです。それは、ある種の劇薬です。服用量を間違えれば、二度と、平穏な日常には戻れない。
それでも、私は、あなたにクリムトを知ってほしい。この、どうしようもなく苦しくて、醜いこともある世界の中で、せめて一瞬でも、あの金色の幻影を見て、魂を震わせてほしい。それが、芸術というものが存在する、唯一の理由なのだから。
ああ、話しすぎました。喉が渇いてしまいました。あなたは、私の話を、あくびもせずに聞いてくれましたね。それだけで、私は救われたような心持ちです。クリムト、あの、ひげ面でスモックを着た、金細工師の息子。彼は、今もどこかで、金色の絵筆を動かしながら、私たちのこの、滑稽で愛おしい右往左往を、皮肉な、しかし優しい眼差しで見つめているに違いありません。
いいですか、あなた。美しさというものは、決して、あなたを裏切りません。裏切るのは、いつも人間の方です。だから、もしあなたが、誰にも言えない悲しみや、絶望を抱えた時には、静かに、あの黄金の絵を開いてごらんなさい。そこには、あなたを、優しく、しかし確実に、破滅へと誘う、至上の安らぎが待っているはずですから。
まあ、そんなことを言って、私もまた、こうして原稿用紙に向かっているわけですが。私自身、クリムトのような強靭な美意識を持ち合わせていれば、もう少し、まともな人生を送れたのかもしれません。いや、それは無理な相談というものです。私は、金よりも、酒と女と、そして何より、あなたの、その、ふんふんと頷く優しい顔の方が、ずっと好きなのですから。
クリムトの話は、これでおしまいです。明日は、また、別の話をしましょう。もっと、こう、馬鹿馬鹿しくて、笑いが止まらないような話を。でも、今夜だけは、寝床に入って、瞼の裏に、あの金色の渦を思い浮かべてみてください。きっと、素敵な、そして、少しだけ恐ろしい夢が見られるはずですよ。
さあ、もう遅い。おやすみなさい。あなたの夢が、クリムトの絵のように、輝かしいものでありますように。そして、その輝きの中で、あなたが、自分自身の真実を、そっと見つけられますように。私は、ここで、ただ、あなたの幸せを、ひっそりと祈っていることにいたします。