
おや、あなた、そんなに眉間に皺を寄せて、一体何を熱心に覗き込んでいるのです。ああ、画集ですか。それもフランシスコ・デ・ゴヤとは、また随分と業の深い、胸の焼けるような劇薬を選び出したものですね。よろしい、お退屈でなければ、少しばかり私の話を聞いてください。何、説教などという野暮な真似はいたしません。ただ、このスペインの老画家の生涯を眺めていると、どうにも他人事とは思えない、滑稽で、それでいて涙の滲むような、人間の「真実」というやつが見えてくるのです。
まず、あなたに知っておいていただきたいのは、このゴヤという男が、最初からあんな恐ろしい「黒い絵」を描くような、暗澹たる隠者ではなかったということです。むしろその逆、彼は若かりし頃、それはもう鼻持ちならないほどの上昇志向の塊で、宮廷画家というきらびやかな地位を夢見て、がむしゃらに階段を駆け上がっていた男なのです。タペストリーの原画を描いては、陽気なマドリードの民衆を美化し、明るい陽光の下で遊ぶ男女を、それこそ砂糖菓子のような甘い色彩で塗り固めていました。彼は出世したかった。金が欲しかった。王様や貴族に認められ、豪華な馬車を乗り回したかった。どうです、実に人間臭い、愛すべき俗物だとは思いませんか。
ところが、天というのは意地が悪い。あなたが順風満帆だと悦に入っている時に限って、背後から冷や水を浴びせかけるのです。ゴヤが四十六歳の時、彼は原因不明の重病に倒れ、聴覚を完全に失ってしまいました。想像してみてください。今まであんなに賑やかだった宮廷の噂話も、美しい音楽も、女性の囁きも、ある日突然、深い海の底に沈んだような沈黙に変わってしまったのです。絶望、という言葉では足りないでしょう。しかし、ここからがゴヤの、そして人間の本当の面白さなのです。
音が消えた世界で、彼の眼はそれまで見えていなかったものを捉え始めました。あるいは、見ようとしなかったものを。彼はもはや、王侯貴族を美しく描き出す必要などないと感じたのかもしれません。彼の筆は、権力者の醜悪な内面や、民衆の愚かさ、そして自分自身の心の奥底に棲まう怪物を、容赦なく暴き出し始めました。あの有名な『カルロス四世の家族』という肖像画をごらんなさい。王族を描いているというのに、そこにあるのは虚栄と無能が顔に張り付いた、まるでパン屋の一家のような、どこか間の抜けた人々の姿です。それを堂々と王宮に納めてしまうのですから、ゴヤという男、なかなかに強かというか、皮肉が効いている。
そして、スペインを襲った戦争の惨禍が、彼をさらに変貌させました。あなたは『一八〇八年五月三日』という絵を知っているでしょう。銃殺される市民と、顔の見えない機械的な兵士たち。あそこに描かれているのは、高潔な殉教の美学などではありません。ただ無惨に、泥のように死んでいく人間の、剥き出しの恐怖と不条理です。ゴヤは、美しさというオブラートをかなぐり捨てて、現実というものの心臓を直接掴み取ろうとしたのです。
晩年、彼が自分の家の壁に描きなぐった「黒い絵」の数々は、まさに圧巻です。『わが子を食らうサトゥルヌス』なんて、正気の沙汰とは思えません。暗闇の中で自分の子供を食い千切る巨人の姿。けれど、あなた、これを単なる狂人の妄想だと片付けてはいけません。これは、私たち誰もが持っている、時間という残酷な怪物、あるいは自己保存という名の暴力性を、これ以上ないほど正直に描き出したものなのです。
私があなたに伝えたいのは、ゴヤが偉大な芸術家であったということ以上に、彼がいかにして「自分自身」と、そして「醜い現実」と心中したかということです。人は誰しも、自分を良く見せたいという虚栄心を抱えています。けれど、その虚栄が剥ぎ取られた後に残る、耳をふさぎたくなるような沈黙の中にこそ、本当の光があるのかもしれない。ゴヤは耳が聞こえなくなったからこそ、世界の真実の叫びを聞くことができた。それは皮肉な、けれど救いに満ちた逆説です。
さあ、もう一度、画集のページをめくってみてください。ゴヤの描く怪奇な怪物たちが、どこかユーモラスに、親しみ深く見えてきませんか。彼らは、私たちの鏡なのです。失敗し、裏切られ、病に倒れ、それでもなお、キャンバスに向かって筆を振るい続けた老画家の執念。それは、格好は悪いかもしれませんが、この上なく美しい人間の姿だと私は思うのです。あなたも、いつか行き詰まった時には、このゴヤのことを思い出してください。絶望のどん底には、最高に面白い「絵」が隠されているものですよ。