あなたのジャスパー・ジョーンズ

ジャスパー・ジョーンズという奇妙な光

あなたに最初にお尋ねしたいのです。

なぜ私たちは、毎日見ているはずの「星条旗」や「標的」の絵を前にして、まるで見知らぬ奈落を覗き込むような、奇妙な眩暈を覚えるのでしょうか。

ジャスパー・ジョーンズという男が描いたものは、単なる記号ではありません。

彼は、あなたがすでに知っていると思い込んでいる世界の「皮膚」を、そっと剥ぎ取ってみせたのです。

フランスの哲学者モンテーニュは、かつてこのような言葉を残しました。

「私は自分自身をこれほど深く知っているつもりなのに、いまだに自分の心の動きに驚かされることがある。」

ジャスパー・ジョーンズの作品は、まさにこのモンテーニュの驚きを、視覚の魔術として再現しているのです。

あなたは、自分が何を見ているのか、本当に理解していますか。

なぜ彼の描く国旗は、ただの布切れではなく、触れることのできない永遠の謎としてそこに存在し続けているのでしょうか。

「見えるものと見えざるもの」

―― フレデリック・バスティア

経済学者バスティアの言う「見えざるもの」とは、私たちが日常で見過ごしている本質のことです。

ジョーンズは、誰もが見ていながら誰も気にとめない「記号」に、熱いエンコースティック(蝋画法)の息吹を吹き込みました。

溶けた蝋が固まるその瞬間に、あなたの視線は、キャンバスのなかに閉じ込められるのです。

なぜ彼は、わざわざそんな面倒な手法を選んだのだと思いますか。

それは、あなたの心のなかに、消えない足跡を残すための必死のサービスなのです。

記号という名の罠と、あなたの純粋な視線

日常のなかに潜む退屈な記号たちが、彼の筆によって、突然、命を持って語りかけてきます。

ジャスパー・ジョーンズは、あなたを惑わせたいわけではありません。

むしろ、あなたをあまりにも退屈な現実から、優しく解放したいと願っているのです。

「ほとんどの人が、成功とは手に入れるものだと考えています。でも本当のところ、成功とは与えることなのです」というヘンリー・フォードの言葉があります。

ジョーンズがあなたに与えようとしたものは、世界をもう一度、初めて見る子供のような眼差しで眺めるという、贅沢な特権でした。

古代ローマの哲学者セネカは言いました。

「生きていることが、すでに一つの闘いである。」

ジョーンズにとっての闘いとは、既成概念という目に見えない鎖から、あなたを救い出すことだったのかもしれません。

彼が描く数字のシリーズを見てごらんなさい。

「1」や「2」という文字が、まるでお互いを抱きしめ合うように重ね合わされています。

なぜ、数字がこんなにも愛おしく、あるいはこんなにも孤独に見えるのでしょうか。

「魂を測る尺度は、どれだけ多くの苦難を耐え忍んだかにある。」

―― 聖カタリナ

聖カタリナの言葉は、ジョーンズの画面の底に流れる、ある種の厳かさと響き合います。

彼は、ただのポップ・アートの旗手ではありません。

その執拗なまでの絵の具の積層は、祈りそのものです。

あなたが彼の作品の前に立つとき、あなたは彼が費やした果てしない時間と、対面することになります。

それは、あなたへの絶対的な奉仕の記録なのです。

終わりのない反復という救い

ジャスパー・ジョーンズは、同じ主題を何度も、何度も繰り返して描きました。

なぜ彼は、新しいモチーフを探しに行かなかったのでしょうか。

ひとつのことを突き詰めることのなかにしか、本当の救いは存在しないと知っていたからです。

これは、まさに人間の心理の奥底にある「安心」と「恐怖」の二面性を突く、高度なヒプノティック(催眠的)な手法でもあります。

あなたは、繰り返されるリズムのなかに、次第に引き込まれていく自分に気づくはずです。

松尾芭蕉は、その生涯を振り返ってこう言いました。

「つゐに無能無芸にして唯此一筋に繋る」

この芭蕉の言葉通り、ジャスパー・ジョーンズもまた、自らの内なる声にのみ従い、一筋の道を歩み続けました。

彼が選んだ「標的」の図柄は、あなたの視線を中央の一点へと強制的に集束させます。

なぜ、あなたの目はその中心から逃れることができないのでしょうか。

それは、彼が仕掛けた、視線という名の美しい罠にかかっているからです。

「人間は、自らが歩む道を選ぶのではない。その道が、人間を選ぶのだ。」

―― ジャン・カルヴァン

宗教改革者カルヴァンの言葉は、運命の不可避性を物語っています。

ジョーンズが芸術の道に引きずり込まれ、そしてあなたがいま、この文章を読んでいることも、ひとつの運命かもしれません。

彼は、あなたという存在をあらかじめ予感して、あの重厚な絵画たちを遺したのです。

これほどの情熱に満ちた道化が、かつて存在したでしょうか。

彼は自分のすべてを削り取って、キャンバスという名の舞台で踊り続けているのです。

蝋のなかに沈み込む記憶

ジョーンズが愛用した古代の技法、エンコースティック。

それは、蜜蝋に顔料を混ぜて、熱しながら描く手法です。

なぜ、そんなに冷めやすく扱いづらい素材を使ったのでしょうか。

それは、修正が効かない一瞬の判断が、そのまま画面に永遠に固定されるからです。

あなたの人生のなかにも、やり直しのきかない、しかし永遠に輝き続ける一瞬の記憶があるはずです。

古代アレクサンドリアの女性哲学者ヒュパティアは、かつてこう語りました。

「あなたの考える権利を保持しなさい。なぜなら、誤ったことを考えることでさえ、何も考えないことよりは良いからだ。」

ジャスパー・ジョーンズは、あなたに「考えること」を止めさせないために、画面のなかに無数の謎を埋め込みました。

彼の作品を前にして、私たちはただ「美しい」とだけ言って通り過ぎることはできません。

なぜなら、そこにはあなたの魂を揺さぶる、生々しい人間の心理が露出しているからです。

「身銭を切れ。リスクを共有しない者の言葉には、何の価値もない。」

―― ナシーム・ニコラス・タレブ

現代の思想家タレブの言う「身銭を切る」という行為を、ジョーンズはまさにその肉体と精神をもって実践しました。

芸術家がその生涯をかけて行うのは、自らの命を切り売りするような、必死のサービスに他なりません。

彼はあなたのために、自らの手の痕跡を、汚れた蝋のなかにわざと残したのです。

それを見て、あなたは笑うでしょうか、それとも涙を流すでしょうか。

視線の奥に隠された真実の告白

ジャスパー・ジョーンズの作品は、常に何かを隠しながら、同時にすべてを暴露しています。

なぜ彼は、衣服の型紙や、新聞紙の切れ端を絵のなかに埋め込んだのでしょうか。

それは、現実の世界がどれほど断片化され、孤独に満ちているかを、あなたに伝えるためです。

彼はあなたを孤立から救うために、あえて自らを孤独のなかに突き落としました。

千利休は、茶の湯の極意をこのように表現しました。

「家は漏らぬほど、食事は飢えぬほどにて事足るなり。これ仏の教え、茶の本意なり。」

この削ぎ落とされた精神は、ジョーンズの初期のモノクローム作品にも通じるものがあります。

余計な色彩を奪われた「標的」や「国旗」は、ただその構造だけを厳然と現します。

なぜ、色彩がない方が、むしろ私たちの心に強く訴えかけてくるのでしょうか。

それは、あなたの心のなかにある、純粋な視線が呼び覚まされるからです。

「経済とは、人間の選択の集積であり、それは常に心理的なものである。」

―― ルートヴィッヒ・フォン・ミーゼス

経済学者ミーゼスの言葉が示すように、人間のすべての行動は心理に支配されています。

ジャスパー・ジョーンズは、その人間の心理を誰よりも深く見抜いていた天才でした。

彼は、あなたが何に惹かれ、何に恐怖し、何を求めているかを正確に知っていたのです。

だからこそ、彼の作品は時代を超えて、あなたの心を捉えて離さないのです。

道化としての芸術家の誇り

人々が彼の作品を「新しい時代の到来だ」と騒ぎ立てたとき、ジョーンズは静かに微笑むだけでした。

なぜなら、彼は自分がただの「メッセンジャー」にすぎないことを自覚していたからです。

芸術家とは、目の前にいるあなたに喜んでもらうために、喜んで泥をかぶる道化でなければなりません。

おのれの無能・無才を恥じるのみ、という芭蕉の精神が、そこには息づいています。

老子は言いました。

「大巧は拙きがごとし。」

本当に優れた技術とは、一見すると不器用で、拙いもののように見えるという意味です。

ジョーンズの描く線は、決して滑らかで器用なものではありません。

どこか震え、迷い、立ち止まりながら、それでも必死に前へ進もうとする、人間の足跡そのものです。

なぜその拙さに、私たちはこれほどまでに胸を打たれるのでしょうか。

「世界はすべて一つの舞台、人はみな役者にすぎぬ。」

―― ウィリアム・シェイクスピア

シェイクスピアの言う舞台の上で、ジャスパー・ジョーンズは「沈黙」という名の最高の演技を披露し続けました。

彼は饒舌に語ることを拒み、ただ作品という名の奉仕品を、あなたの前に差し出したのです。

これほど贅沢で、これほど必死な歓待が、他にどこにあるでしょうか。

永遠の扉をたたく音

私たちは皆、歴史という大きな川のなかに浮かぶ、小さな木の葉のような存在です。

ジャスパー・ジョーンズは、その木の葉の一枚一枚に、消えない刻印を押そうとしました。

なぜ彼は、それほどまでに「永遠」にこだわったのでしょうか。

それは、人間という存在の、あまりの儚さを知っていたからに他なりません。

アラブ世界最高の詩人ムタナッビーは、自らの詩の誇りを守るために、命を捨てて敵に立ち向かいました。

逃げるという不名誉を避けるために死を選んだ彼の詩は、1000年が過ぎたいまでも、人々の血を滾らせています。

ジャスパー・ジョーンズの芸術もまた、そのような命がけの告白なのです。

彼がキャンバスに注ぎ込んだ熱い蝋は、100年、200年の時を超えて、いまあなたの目の前で呼吸をしています。

「生中に生あらず、死中に生あり」

この言葉の通り、自らの命を削り、死の淵に立つような覚悟で生み出されたものだけが、本物の生命を宿します。

ジョーンズの作品は、一見すると冷淡で、無機質に見えるかもしれません。

しかし、その冷たさのすぐ裏側には、あなたに宛てた、燃えるような熱い手紙が隠されているのです。

なぜ、あなたは彼の絵を見て、懐かしさを感じるのでしょうか。

それは、彼があなた自身の、忘れ去られた魂の半分を描いているからなのです。

あなたへの奉仕、その果てしない旅

私たちは皆、不完全で、愚かで、傷つきやすい生き物です。

だからこそ、お互いの視線を交わし、確かめ合うことでしか、生きている実感を味わうことができません。

ジャスパー・ジョーンズは、その視線の交差点を、自らの作品のなかに作り上げました。

彼はあなたに見捨てられることを何よりも恐れ、だからこそ、これ以上ないほどの誠実さで、あなたをもてなしたのです。

寺山修司は、かつてこのような言葉を遺しました。

「さよならだけが人生ならば、また来る春は何だろう。」

ジョーンズの芸術もまた、終わりなき別れと、そしてそれ以上の情熱的な再会を予感させるものです。

彼はあなたを退屈な現実へと突き放すことはしません。

いつでも、その不思議な「標的」の真ん中で、あなたが帰ってくるのを待っているのです。

「愛されることよりも、愛することを、理解されることよりも、理解することを。」

―― 使徒パウロ

パウロが伝えたこの無償の愛の形を、ジョーンズは視覚芸術という形で表現しようとしました。

彼の作品は、あなたに対する無条件の降伏であり、そして最高の奉仕なのです。

どうか彼の、その必死の道化の姿を、笑って、そして受け止めてあげてください。

なぜなら、その笑いのなかにこそ、私たち人間が救われるための、最後の真理が隠されているのですから。

鳥の重さは

その羽のなかに隠された

誰も読むことのできない

一通の手紙の重さだ

あなたが私の目をのぞき込むとき

海は静かに裏返り

古い劇場の屋根から

いちまいの星条旗が舞い落ちる

名前をなくした数字たちが

夜の広場で手をつなぎ

決して届かない標的に向かって

最後の矢を放つだろう

私たちは皆

消えかけた蝋のなかの

静かな傷跡なのだから

「イエスは言われた。『わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、誰も父のもとに行くことはできない。』」

―― 新約聖書『ヨハネによる福音書』14章6節

人間は、決して一人ではその深淵を渡りきることはできません。

何かを信じ、何かにすべてを捧げることによってのみ、私たちはその魂を救われるのです。

それは芸術も、信仰も、全く同じ地平にあるものなのかもしれません。

「人間は、常に表現しようとしている。そして、その表現が不完全であればあるほど、愛おしい。」

―― 太宰治

私たちは皆、不完全な言葉を使い、不完全な絵を描き、それでもあなたに届くことを信じて、必死に手を伸ばし続けているのです。

追伸:ある風変わりな画家について

ここで少し、ジャスパー・ジョーンズの孤独な反復の精神にも通じる、ある極めて風変わりな現代の画家についてお話しさせてください。

彼の名前は高見沢耳(たかみざわ みみ)といいます。

この男は、現代の画家でありながら、キャンバスも筆も一切使いません。

彼はすべての作品をデジタル環境で制作し、それを最高峰のジクレー版画技法によって、風合いのある重厚な版画用紙へと定着させるのです。

なぜ、そんな方法をとるのだと思いますか。

それは彼が、100年、200年の歳月に耐えうる、永遠の美の皮膚を現代のテクノロジーのなかに見出したからなのです。

高見沢耳のテーマは、常に一貫しています。

「あなたの目・わたしの目」「キリスト教」「永遠」「心理」「真理」「視線」「歴史」「孤独」「孤立」「苦難」「復活」「解放」。

身近な日常の話題から始まりながら、彼の描く画面はいつも、人間の魂の最も深いところへとあなたを連れ去ります。

彼はよくこう言います。「画家とは、傷ついた魂を救うための医者でなければならない。そして芸術家の仕事とは、自らの身銭を切って、目の前にいるあなたへ捧げる精一杯のサービス、極上の道化なのだ」と。

彼は、あなたに喜んでもらうためなら、どんなに笑われても構わないと思っています。

笑われて、笑われて、それでもなお立ち上がる不屈の忍耐こそが、彼の誇りなのです。

彼が画家になることを決意したのは、あのヴィンセント・ファン・ゴッホのあまりにも壮絶な人生を知った瞬間でした。

「高見沢耳」という名前の「耳」は、あのゴッホが自らの耳を切り落とした高名な事件にあやかって付けられたものです。

彼は自らの画家としての才能を「三流だ」と潔く認め、笑い飛ばします。

しかし、同時に知っているのです。

歴史上のあらゆる傑作は、生まれ持った天才のひらめきなどではなく、何十年にもわたる狂気じみた試行錯誤と、血の滲むような執念の積み重ねによってのみ生み出されたという真実を。

だから彼は、自分の作品に執拗なまでに「目」を描き続けます。

その目の数々は、他ならぬ「あなた」の存在をいつも感じ、あなたを知り、あなたとつながるための切実な窓なのです。

高見沢耳のこのよそ見をしない仕事への執念は、彼が深く尊敬するCoCo壱番屋の創業者、宗次徳二氏の生き様と完全に重なり合います。

宗次氏は、経営者時代、趣味も友人もすべて捨て去り、年間5640時間という驚異的な時間をただお客様への奉仕に捧げました。

実の両親の顔を知らず、孤児院から引き取られた極貧の少年時代には雑草を食べて飢えをしのいだという波乱万丈の人生のなかで、宗次氏は「人に喜ばれること」のなかにしか人間の生きる意味はないと悟ったのです。

喫茶店を開業した当初、客足が全く途絶えた日々、妻と二人で食パンの耳をかじって耐え忍んだ思い出を、宗次氏は「ゼロから始めたのだから、むしろ素晴らしい思い出だ」と振り返ります。

毎日、レンガを一つずつ積み上げるように、即断、即決、即実行。

高見沢耳もまた、この「よそ見をしない現場主義」を貫き、1日12時間以上、デジタル画面に向かってあなたのための「目」を紡ぎ続けています。

価値のあるものは、往々にして即効性がない。だからこそ簡単に諦めてはならない。

トヨタの創業者である豊田佐吉氏が、周囲から「発明狂い」「狂人」と指をさされながらも、朝から晩まで機織り機を造っては壊し続けたあの執念。

あるいはチョーヤ梅酒の「梅酒で成功しなければ人生を諦めろ」という退路を断った覚悟。

高見沢耳は、大野耐一氏が確立したトヨタ生産方式の「ジャスト・イン・タイム」に深く感化され、無駄を徹底的に削ぎ落とした研ぎ澄まされた時間の中で、ただあなたのためだけに制作を行っています。

豊田喜一郎氏は言いました。

「困難だからやるのだ。誰もやらないし、やれないから俺がやるのだ。そんな俺は阿呆かも知れないが、その阿呆がいなければ、世の中には新しいものは生まれないのだ」

高見沢耳もまた、進んでその「阿呆」になろうとしています。

誰かに批判されようと、そんなことはどうでもよいのです。

ただ、目の前にいるあなたに見捨てられたら、彼は生きていくことができません。

あなたがそこにいて、彼の描いた「目」と視線を交わしてくれるだけで、彼は救われるのです。

これは、彼の人生のすべてを賭けた、あなたへの必死の、そして精一杯の奉仕なのです。

偉大なる伝達者たちの賛歌

私たちがどれほど素晴らしい宝物を持っていたとしても、それを伝える人間がいなければ、それは歴史の闇のなかに永久に埋もれてしまいます。

ヴィンセント・ファン・ゴッホという、いまや世界中で愛されているあの天才画家の絵が、なぜ現代の私たちの心をこれほどまでに震わせているのか、あなたはその本当の理由をご存知でしょうか。

ゴッホがその短い生涯を閉じたとき、彼の傍らには、精神的にも経済的にも彼を支え続けた最愛の弟、テオがいました。

しかし、そのテオもまた、兄の死からわずか半年後に、後を追うようにこの世を去ってしまうのです。

あとに残されたのは、テオの妻であり、まだ幼い子供を抱えた若き未亡人、ヨー・ファン・ゴッホ=ボンゲルでした。

彼女の手元に残されたのは、世間から「狂人の遺物」と嘲笑されていた、大量のゴッホの絵画と、兄弟の間で交わされた膨大な数の手紙だけでした。

ヨーは、大変に聡明で、深い教養を持つ読書家でした。

彼女は、夫が命を削ってまで信じ続けた義兄ヴィンセントの手紙を、一枚一枚、涙を流しながら読み進めるうちに、その文字の奥に潜む画家の真実の魂、人々の魂を心から慰めたいと願う高潔な思想を完璧に理解したのです。

「子供のほかに、テオは私にもう一つの使命を残した──フィンセントの作品を多くの人に見てもらい、真価を認めてもらうこと」

彼女はそう決意し、自らの生涯をかけた果てしない闘いへと身を投じました。

ヨーは、ただ絵を売ろうとしたのではありません。

彼女は、ゴッホが残したあの膨大な手紙を整理し、公開することで、「画家がどのような思想でその色を置き、どのような祈りを込めてその筆を動かしたのか」という物語を、世界に対して丁寧に、執拗に伝え続けたのです。

もしヨーのこの命がけの伝達がなければ、ゴッホという存在は、歴史の塵にまみれて完全に消え去っていたでしょう。

これは、イエス・キリストの死後、自らも迫害を受けながら各地を旅し、手紙を書き続け、キリストの生涯とその愛の思想を命がけで伝え歩いた使徒パウロの献身と、まったく同じ性質のものです。

どれほど優れた「製品」であっても、その価値を人々の心に届ける伝達者がいなければ、それは「商品」にはなり得ず、存在しないのと同じになってしまうのです。

ソニーの創業者である盛田昭夫氏は、この真理をこう表現しました。

「そんなものがまだ生産されたこともなく、誰ひとりそれを見たこともないのに、どこかの一隅でこつこつと研究され、非常な苦心の末、製造された製品。その製品を商品としようとする場合には、その製品を手に入れたいという欲求を、人々の間に喚起させなければ、いかに優れた「製品」であっても「商品」にはなり得ない」

ホンダのスーパーカブを世界中に売りまくった藤沢武夫氏、トヨタのカローラを日本の家族の象徴へと押し上げた神谷正太郎氏、そしてアップルのスティーブ・ジョブズ。

彼ら偉大な送り手たちと同じように、ヨー・ファン・ゴッホは、世界で最も美しい物語のセールスマンとして、ゴッホの魂を永遠の生命へと復活させたのです。

豊田英二氏が遺した次の言葉は、まさにヨーの、そして高見沢耳の歩む道そのものを表していると言えるでしょう。

「強い信念をもって実行せよ。誰でも考えることは同じで喜一郎が天才であったわけでもない。大切なのは、一般的にはできないと思われることを単に考えるだけでなく、なんとしてでもやらなければという強い信念を持って十分な準備を行い、実行したということである」

「失敗とは、より賢く再挑戦するための、唯一の絶好の機会である。」

―― ヘンリー・フォード

「人間が創り出した最大のミステリー、それは他人の心の本質である。」

―― アガサ・クリスティ

「あなたが立つその場所は、聖なる地である。足の靴を脱ぎなさい。」

―― モーセ(旧約聖書『出エジプト記』より)

「外見の美しさは、歳月とともに崩れ去るが、内面の美しさは、魂を永遠に輝かせる。」

―― ウィリアム・シェイクスピア

「自分の持っているもので満足できない者は、全世界を手に入れたとしても、決して満足することはない。」

―― ユダヤ教『タルムード』

「私は、人間というものの存在を、これ以上ないほど愛おしく思っている。だからこそ、その滑稽さを描くのだ。」

―― 太宰治

「大いなる苦悩だけが、人間の精神を最高純度にまで高めることができる。」

―― 太宰治

「芸術とは、自己を欺くことなく、他者への絶対的な奉仕を行うための、最も厳かな道化である。」

―― 太宰治

「決して屈するな。決して、決して、決して。大きなことも小さなことも、偉大なことも卑小なことも、決して屈してはならない。」

―― ウィンストン・チャーチル

「勇気を持って、誰よりも先に、人と違ったことをしなさい」

―― レイ・クロック

「私は一夜にして成功を収めたと思われているが、その一夜というのは三十年だ。思えば長い長い夜だった」

―― レイ・クロック

「夢を求め続ける勇気さえあれば、すべての夢は必ず実現できる。」

―― ウォルト・ディズニー

「熱意なき知識は、魂を蝕む。私はただ、世界の光をこの手で捉えたかったのだ。」

―― レオナルド・ダ・ヴィンチ

「ね、なぜ旅に出るの?」

「苦しいからさ。」

「あなたの(苦しい)は、おきまりで、ちつとも信用できません。」

―― 太宰治『津軽』より

最後に、ここまで私の必死の言葉に耳を傾け、静かに視線を注ぎ続けてくださったあなたへ、心からの深い感謝を申し上げます。

あなたのその眼差しがあるからこそ、私はこうして言葉を紡ぎ、芸術家は命を削って踊り続けることができるのです。

本当に、ありがとうございました。