ああ、あの、アングルという男について、少しばかりお話をさせてください。皆さんは、アングルと聞いて、何を思い浮かべますか。あるいは、何も思い浮かばない。それならそれで、一向に構わないのです。ただ、この男の描いた絵の、あの「つるつる」とした質感についてだけは、一度じっくりと考えてみる必要がある。
世の中には、不器用な情熱というものがありますが、アングルの場合は、それが度を越して「執念」の域に達している。彼は、デッサンこそが芸術のすべてであると信じ込んで、もう、それこそ呼吸をするのも忘れるくらいの勢いで、線を引く。しかも、その線が、どこまでも滑らかで、隙がない。まるで、この世の摩擦というものをすべて取り去ってしまったかのような、そんな不思議な滑らかさなのです。
例えば、彼の代表作の一つである「泉」をごらんなさい。あの、壺を持って立っているお嬢さんです。あれを眺めていると、なんだか、人間を描いているというよりは、上等な大理石を、さらに磨き上げて、そこにうっすらと生命の灯を点したような、そんな奇妙な気分になってくる。肉体というよりは、彫刻に近い。それも、ただの彫刻ではない。完璧主義という病に取り憑かれた男が、一分の狂いも許さずに作り上げた、工芸品のような肉体です。
アングルは、当時のフランス画壇で、ラファエロの再来だなんて呼ばれて、古典派の旗手として君臨していました。対するは、自由奔放な色彩で勝負するドラクロワ。この二人の仲の悪さといったら、もう、子供の喧嘩どころではありません。アングルに言わせれば、ドラクロワの絵なんてのは、ただの泥遊びに過ぎない。形が崩れている、線が乱れている、あんなものは芸術に対する冒涜だ。そうやって、眉間に皺を寄せて怒るわけです。
しかし、ここが面白いところなのですが、アングルという人は、それほどまでに「正しさ」を追求しながら、実はとんでもない「嘘」をついている。有名な「オダリスク」という、背中を向けた女性の絵がありますが、あれ、よく見てごらんなさい。背骨が、普通の人間よりも三つか四つ、多いんです。解剖学的には、あんな体はあり得ない。もし本当にあんな人がいたら、歩くこともままならないでしょう。
でも、アングルは確信犯として、その骨を足した。なぜか。その方が、線として美しいからです。デッサンの鬼、写実の神様なんて呼ばれながら、彼は自分の理想とする「究極の曲線」を描くために、平気で人体を改造してしまった。これは、単なる技術の問題ではありません。これはもう、エゴイズムの極致であり、同時に、芸術家としての凄まじい業(ごう)というべきものでしょう。
僕たちは、往々にして「正解」を探したがります。物事はこうあるべきだ、ルールは守るべきだ、現実はこう見えているはずだ。アングルもまた、その「正しさ」の守護神のような顔をして現れました。しかし、彼が本当に追い求めていたのは、現実の正しさではなく、自分の中にある「美という名の狂気」だった。
現実に合わせて自分を曲げるのではなく、自分の美学に合わせて現実の骨を一本、二本と足していく。その図々しさ、その厚かましさ。それこそが、凡百の画家と、天才とを分かつ境界線なのかもしれません。彼は、つるつるとした完璧な画面の裏側で、実はべっとりと濃い、執念深い情熱を煮詰めていたのです。
アングルの絵を前にして、もしあなたが「なんだか、綺麗すぎて冷たいな」と感じたなら、それは正解です。しかし、その冷たさの奥にある、骨を増やしてまで美しさを捏造しようとした男の、あの必死な形相を想像してみてください。そうすると、あの滑らかな肌が、急に生々しく、熱を持って迫ってくるような気がしませんか。
人生において、あまりに真面目に、あまりに潔癖に生きようとすると、どこかで無理が出る。しかし、その無理を承知で、自分の理想という骨を一本足してみる。そうすることで初めて生まれる、歪んだ美しさというものがある。アングルという男は、そのことを、あの不自然に長い背中で、僕たちに教えてくれているような気がするのです。
皆さんも、もし自分の人生が、どうにも形にならないと嘆きたくなったときは、アングルのことを思い出してください。そして、心の中でそっと、自分の背骨を一本、書き足してみればいい。現実なんてものは、案外、そのくらいのわがままで変えてしまえるものなのかもしれません。もちろん、アングルのように、誰からも文句を言わせないほど、つるつるに磨き上げる努力は必要でしょうけれど。
そんなわけで、アングルという男は、単なる古い時代の教科書的な画家ではありません。彼は、自分の幻想を現実よりも「正しく」描き切ろうとした、世界で一番頑固で、一番不自由で、そして一番自由な、夢想家だったのです。彼の描いたあの、しなやかな、あり得ないほど長い背中を眺めながら、僕たちは、自分たちの不格好な現実を、もう少しだけ愛してみてもいいのではないでしょうか。