パブロ・ピカソという名前を聞いて、皆さんはまず何を思い浮かべるでしょうか。おそらく、鼻が横を向いているのに目がこちらを向いている不思議な肖像画や、なんだかよく分からないけれど情熱だけは伝わってくる幾何学的な形、あるいは、子供が描いたようにも見えるけれど、どこか凄みのある不思議な絵のことではないかと思います。世間一般では、ピカソという言葉そのものが「理解不能な天才」の代名詞のようになっていますが、彼という人間を紐解いていくと、実はもっと身近で、もっとチャーミングで、そしてなによりも強烈に「人間臭い」おじさんとしての姿が見えてきます。
まず、彼の本名について触れないわけにはいきません。ピカソのフルネームは、パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ファン・ネポムセーノ・マリア・デ・ロス・レメディオス・シプリアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ルイス・イ・ピカソといいます。これ、冗談ではなく本当の話です。あまりにも長いので、覚えようとすると途中で頭が真っ白になりますが、要するに聖人や親戚の名前をこれでもかと詰め込んだ結果です。もし彼が現代に生きていて、役所の書類に名前を書かなければならなかったら、それだけで彼の芸術活動の半分くらいの時間が削られていたかもしれません。そう思うと、彼が「ピカソ」という短い名前で活動してくれたことは、我々にとっても、そしておそらく彼にとっても幸運なことでした。
ピカソの伝説は、生まれた瞬間から始まっています。彼は生まれたとき、あまりにも静かだったので死産だと思われたそうです。ところが、立ち会っていた叔父さんが吸っていた葉巻の煙を赤ん坊の顔に吹きかけたところ、ピカソは烈火のごとく泣き出したといいます。ニコチンで目を覚ますという、なんともワイルドなデビュー戦です。このエピソードを聞くと、彼が生涯にわたって放ち続けたあの凄まじいエネルギーの源泉は、案外このときの煙だったのではないかと思えてきます。
彼は神童でした。彼の父親も画家であり美術教師でしたが、幼いパブロが描いた絵があまりにも上手すぎて、父親は「もう自分は教えることが何もない」と絶望し、筆を折って息子にパレットを譲ったという有名な話があります。子供に才能があるのは嬉しいけれど、プロのプライドを粉々にされる父親の気持ちを想像すると、少しだけ切なくなります。でも、ピカソ本人はそんな周囲の困惑などどこ吹く風で、ひたすら描き続けました。
ピカソの凄さは、一つのスタイルに留まらなかったことです。普通の画家なら、一度「これだ」というスタイルを見つけて成功すれば、一生それを続けていくものです。しかし、ピカソは違いました。親友の死に打ちひしがれて青い絵ばかり描く「青の時代」があれば、恋をして幸せになって画面が明るくなる「バラ色の時代」があり、そして皆さんがよく知る、バラバラの視点を一つにまとめる「キュビスム」へと進化していきます。これは例えるなら、人気ラーメン店の店主が、ある日突然「今日からイタリアンにするわ」と言い出し、それがまた大行列になり、さらに翌月には「やっぱりお茶漬け屋だ」と看板を掛け替えるようなものです。しかも、そのどれもが超一流。ファンはたまったものではありませんが、それでも追いかけたくなる魅力が彼にはありました。
特にキュビスムの時代、彼はキャンバスの上で物体をバラバラに解体しました。なぜそんなことをしたのか。彼は「目に見えるもの」ではなく「知っているもの」を描こうとしたのです。例えば、目の前のコップを見るとき、私たちは正面からしか見ていませんが、頭の中ではコップの裏側も底も知っています。それなら全部一気に描いてしまえばいいじゃないか、というのが彼の理屈です。この自由すぎる発想。もし彼が料理人だったら、カレーを注文した客に「ジャガイモの断面とルウの香りとスプーンの冷たさを別々に再構築した皿」を出して、「これがカレーの本質だ」と言い放ったことでしょう。
ピカソの私生活も、またキャンバス以上に複雑でした。彼は生涯で多くの女性を愛し、そのたびに作風を変えました。新しい恋人ができると、前の恋人の面影は霧のように消え去り、キャンバスには新しい女神が君臨します。女性たちにとってはたまったものではありませんが、彼にとっては恋こそがガソリンであり、新しい自分に生まれ変わるための儀式だったのでしょう。彼は非常にマメで情熱的な男でしたが、同時にとてつもなく自分勝手でもありました。でも、それだけのエネルギーがないと、数万点にも及ぶ作品をこの世に残すことはできなかったのかもしれません。
また、ピカソには非常に愛らしいエピソードもあります。彼は動物が大好きで、ダックスフントのランプという犬を溺愛していました。さらに、フクロウを飼っていたこともあります。あるとき、怪我をしたフクロウを拾ってきて手当をし、そのままアトリエで一緒に暮らしていたそうです。ピカソのような強烈な個性の持ち主とフクロウが、真夜中のアトリエで見つめ合っている光景を想像すると、なんだか不思議な童話のワンシーンのようで、少しだけ彼が可愛らしく思えてきます。
彼の金銭感覚についても面白い話があります。ピカソは世界で最も裕福な画家の一人でしたが、彼はよく小切手で支払いをしました。なぜかというと、彼がサインをした小切手は、それ自体が「ピカソの直筆サイン」としての価値を持ってしまうため、受け取った相手が換金せずに大事に飾ってしまうことを知っていたからです。つまり、実質的にタダで買い物をしていたようなものです。自分の名前が通貨になるなんて、現代のインフルエンサーも顔負けのブランド力です。小切手を受け取った店主も、お金は入ってこないけれどピカソのサインが手に入る。なんとも奇妙で、それでいて誰も損をしていないような、ピカソらしい魔法のような話です。
ピカソは晩年になっても、その創作意欲が衰えることはありませんでした。「ようやく子供のような絵が描けるようになった」という彼の言葉は非常に有名です。年を取れば取るほど、知識や技術という鎧を脱ぎ捨てて、純粋な好奇心だけで筆を動かせるようになった。これは、どんな分野であっても到達できる最高地点ではないでしょうか。私たちは大人になるにつれて、正解を求め、失敗を恐れ、周囲の目を気にするようになります。しかし、ピカソは九十歳を過ぎても、まるで砂場で遊ぶ子供のように、新しい形を求めて手を動かし続けました。
彼の作品を見るとき、もし「何が描いてあるのか分からない」と悩んでしまったら、こう考えてみてください。ピカソは私たちを困らせようとしたのではなく、「世界はこんなに自由に見てもいいんだよ」と教えてくれているのだと。彼は伝統というガチガチのルールに穴を開け、そこから差し込む光を見せてくれました。彼の絵が変に見えるのは、彼が変だったからではなく、彼が誰よりも「自由」だったからです。
ピカソの生涯を振り返ると、そこには圧倒的な才能と、それと同じくらいの人間的な欠点、そして尽きることのない好奇心が見えてきます。彼は決して雲の上の聖人ではなく、泥臭く、わがままで、笑い、怒り、そして誰よりも人生を楽しんだ男でした。彼が残した膨大な作品群は、単なる美術品ではなく、彼がこの世界をどれほど面白がっていたかという、膨大な「日記」のようなものかもしれません。
次にピカソの絵を美術館で見かけることがあれば、少しだけ肩の力を抜いてみてください。そして、その絵を描いている最中の彼を想像してみてください。おそらく彼は、舌を少し出しながら、次はどこを壊してやろうかとニヤニヤしながら筆を走らせていたはずです。芸術の巨匠としてではなく、世界一の悪ガキとして彼と向き合うとき、彼の絵はもっと鮮やかに、そしてもっと愉快に私たちの目に映ることでしょう。パブロ・ピカソ。彼はその長い名前と同じくらい、語り尽くせないほど豊かで、デコボコで、そして愛すべき人生を駆け抜けた、永遠の「子供」だったのです。