江戸絵画の奇才 鈴木其一
おや、あなた、そんなに目を丸くして私の顔を眺めたりして、一体どうしたというのです。よほど私の話しぶりが、どこかの誰かさんの真似事に聞こえたのではありませんか。いえ、言わなくても分かります。私には、あなたの心の底に溜まった澱のような疑念が、透き通る硝子細工の向こう側を見るように、実にはっきりと見えてしまうのですから。まあ、そう身構えないでください。私はただの、少しばかりお喋りが過ぎる友人。それも、あ […]
おや、あなた、そんなに目を丸くして私の顔を眺めたりして、一体どうしたというのです。よほど私の話しぶりが、どこかの誰かさんの真似事に聞こえたのではありませんか。いえ、言わなくても分かります。私には、あなたの心の底に溜まった澱のような疑念が、透き通る硝子細工の向こう側を見るように、実にはっきりと見えてしまうのですから。まあ、そう身構えないでください。私はただの、少しばかりお喋りが過ぎる友人。それも、あ […]
酒井抱一というお方は、まったく、あなたという人を困らせるほどに、あざやかで、いけ好かないほどに洒脱な御仁であります。 江戸の風雅などというものは、私のような、煮ても焼いても食えぬ田舎者から見れば、どこか遠くの空に浮かぶ銀の雲のようなもので、美しすぎて腹が立つ。あなたは、抱一の描いた「夏秋草図屏風」を、どこかで見かけたことがおありでしょうか。あの銀泥の背景を。雨に打たれて、ぐったりと項垂れている青い […]
ああ、もう、何という事だろう。世の中には「清らかさ」というものが、これほどまでに残酷なほど、むき出しのまま転がっているものなのか。皆さんはご存じか。ジョヴァンニ・ダ・フィエーゾレという男を。もっとも、そんな小難しい姓名で呼ぶ奴は、美術史の講義で居眠りをしている学生か、さもなければよほどの物好きに限られている。世間一般では、彼は「フラ・アンジェリコ」、すなわち「天使のような修道士」という、気恥ずかし […]
喜多川歌麿。その名前を口にするだけで、なんだか部屋の空気がふっと白粉の香りに染まるような、あるいは、指先がふいに柔らかい絹の袂に触れたような、そんな艶っぽい心持ちになるじゃありませんか。江戸という時代の、あの眩暈がするほどの華やかさと、その裏側にへばりついている言いようのない寂寥を、たった一筋の筆の線に凝縮してしまった、とんでもない男の話をしましょう。 そもそも、美しさというものは残酷なものです。 […]
皆様、どうか笑わないで聞いていただきたい。いや、笑っていただいても一向に構わないのですが、世の中には「幸福」というものの正体が、案外、洗濯したてのシーツの匂いや、あるいは、ふとした夕暮れ時に見かける親子の背中に隠れているという、そんな当たり前すぎて誰もが見落としてしまうような事実について、少しばかりお話ししたいのです。 ここに、メアリー・カサットという御婦人がおります。十九世紀の、それこそ馬車が石 […]
ああ、もう、たまらない。情熱というものは、どうしてこうも、人の心を引き摺り回し、最後には泥まみれにして平然としているものなのでしょう。皆様、ウジェーヌ・ドラクロワという男をご存じですか。あの、フランスの大きな、重たい、熱病にかかったような絵を描くお方です。 世間ではよく「ロマン主義の旗手」なんて、まるで運動会の花形走者のような呼び方をいたしますが、あんなもの、嘘です。彼はただ、心の中に抑えきれない […]
ああ、あの、アングルという男について、少しばかりお話をさせてください。皆さんは、アングルと聞いて、何を思い浮かべますか。あるいは、何も思い浮かばない。それならそれで、一向に構わないのです。ただ、この男の描いた絵の、あの「つるつる」とした質感についてだけは、一度じっくりと考えてみる必要がある。 世の中には、不器用な情熱というものがありますが、アングルの場合は、それが度を越して「執念」の域に達している […]
鏡の向こう側に、もうひとつの世界が完璧な解像度で存在していると信じていた時代がありました。現代の私たちがスマートフォンの高精細なディスプレイを見つめて「まるでもうひとつの現実だ」と驚くのと似ていますが、十五世紀のフランドル地方に生きた人々にとって、その驚きはもっと魔術的で、静謐な衝撃を伴うものでした。その衝撃の仕掛け人こそが、北方の天才絵師、ヤン・ファン・エイクです。 彼について語るとき、まず「油 […]
ああ、もう、やり切れない。美というものは、どうしてこうも人を残酷にするのでしょう。皆さんは、ジャック=ルイ・ダヴィッドという男をご存じか。名前だけ聞けば、いかにも立派な、どこかの貴族の家令のような響きですが、その実体は、画布の前に座った冷徹な独裁者、あるいは色彩の檻に閉じ込められた美しき亡霊といった風情であります。 フランス革命なんていう、世の中がひっくり返って、昨日までの御馳走が今日からは泥水に […]
ギュスターヴ・モローという名前を聞いて、皆さんはどんな情景を思い浮かべるでしょうか。おそらく、多くの人が「なんだか難しそうで、宝石箱をひっくり返したようなギラギラした絵を描く人」というイメージを抱くかもしれません。しかし、彼の人生とその作品の裏側に潜むエピソードを知ると、この寡黙な芸術家がいかに情熱的で、そして少しばかり「こじらせた」魅力的な人物であったかが見えてきます。 十九世紀のフランス、印象 […]